「今思い出しても恥ずかしい」黒沢清監督が初めてプロの現場を体験した沢田研二主演『太陽を盗んだ男』
―― まだ続いている感じですか(笑)。 黒沢 長谷川さん、撮らないから(笑)。だから、長谷川さんがガンガン撮っていたら、僕の人生は変わっていたかもしれません。相米さんの助監督をずっとやるようになっていたら、また人生変わっていたかもしれませんけど。相米組にも1本しか入れず、長谷川組に回されてしまったので、今日の僕になっていったという変な偶然があるんですね。
ディレクターズ・カンパニーのメンバーに
―― その期間中に立教にもよく来ていて、8ミリも撮られていたということですよね。 黒沢 そうですね。ですから、商業映画の世界では妙な付き人のようなポジションでいつつ、大学は5年で卒業したものの、当然就職などというものはできず。と言いながら、のんびりしていたんですけどね。「映画作りたいな」という思いと、「この先どうやって仕事をしていったらいいんだろう」という思いとが、のんびりとした中で入り交じり、映画を撮るならやっぱり8ミリ、SPPを基盤にして作るかなと。で、SPPの皆さんと短編を作らせてもらったり。『逃走前夜』とかですね。 ―― 花火を打ち合ったりしていた映画ですね。 黒沢 SPPの人たちに荒川の河原まで来てもらって、一斉に花火をぶつけるというのを撮らせてもらったりしたんですけど。そんなことをしつつ、半分は商業映画に足を踏み入れていました。 ―― その時期にディレクターズ・カンパニーというのができた。 黒沢 そうです。相米さんの『セーラー服』が終わったちょっと後だったと思いますけど、長谷川さんがディレクターズ・カンパニーを作るというので、僕はその時は完全に助監督というような立場で、「お前も参加しろ」と言うから。しかも、当時はまだわずかですけれども月給がもらえる。月8万とかそんなものですけど。そんないい話はないというので、「入ります、入ります」と言って、ディレクターズ・カンパニーに参加させていただいたんです。でも、助監督ではあるんですけど、一応監督扱いされて。 ―― 監督の会社だから、監督の一人として黒沢さんがいて、でも8ミリしか撮ってない監督です、という感じでしたね。 黒沢 変な感じでした。他のちゃんとした、根岸吉太郎さんとか、相米さん、長谷川さん、高橋伴明さん、大森一樹さんとかに交じって、「『しがらみ学園』の黒沢です」といって並んでいるんですけど、事務所に行くと長谷川さんの助監督という立場なんですよ。でも、月給をくれるというのは大変ありがたいことでした。 「こんなものは公開しない」日活が異例の納品拒否した黒沢清監督のロマンポルノ作品が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』になったわけ へ続く
小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル