元テレ朝アナ藤井暁さんは40代で「校長先生」 小川彩佳、夏目三久、大島由香里などに熱血指導していた【あの人は今】
【あの人は今こうしている】 藤井暁さん (元テレビ朝日アナウンサー/64歳) ◇ ◇ ◇ 【写真】“夕刊キャッチUP”の佐々木正洋さん 退局後に髄膜炎、逆流性食道炎、肋骨骨折…「今は元気」 “欽ちゃん”こと萩本欽一が“視聴率100%男”といわれた1970~80年代、多くの人気者が彼の番組から生まれた。テレビ朝日の藤井暁さんも、アナウンサーでありながら「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演し、“サンドイッチ”なるトリオで歌を歌い大ヒットさせた。藤井さん、今、どうしているのか。 藤井さんに会ったのは、東京・六本木にあるテレビ朝日のグループ会社「テレビ朝日アスク」。テレビ朝日系のアナウンススクールだ。 「4年前にテレビ朝日の広報部で定年を迎え嘱託採用になり、『アスク』へは去年の5月に来ました」 藤井さん、まずはこう言った。 「44歳のとき、テレビ朝日のアナウンス部に籍を置きながら、『アスク』に現職出向し、GM(校長)を務めたことがありました。実際に教えてもいまして、つい力が入って熱血指導を(笑)。そのときに在籍していたのが小川彩佳アナ、フジテレビに入った大島由香里アナ、日本テレビに入った夏目三久アナ……。自分はアナウンサーとしては四流、五流だったと思いますが、教えるのは下手ではなかったのかな、と(笑)。GMを2年務めた後、またアナウンス部に戻りワイドショー『ワイド!スクランブル』で夕刊紙を読んだりして、11年に広報部へ異動に。そして、テレ朝生活の最後は、もう一度若い人たちの力になって、アナウンサーを生み出したいな、と『アスク』へ異動を願い出たんです」 現在はシニアマネジャーという立場で、話し方教室のチーフの実務をこなすほか、週1回ほど講師として社会人に話し方やナレーションを教えてもいるという。ちなみに、話し方教室の受講料は3カ月間全9回で約6万5000円。べらぼうに高額、というわけではないようだ。 「『アスク』は土日も開校していて、夕方から夜の授業も多い。勤務はシフト制で、土日も出勤があり、遅番で午後から出勤、という日もあります。でも、そんな会社員生活も65歳を迎える来年4月まで。その後は引き続き、『アスク』の講師やイベントの司会などをできることなら続けたいですね。YouTubeを開設して、27年間のアナウンサー生活でご一緒したゴルファーや大相撲関係者とトークができたらいいな、とも考えています」 ■4年前に膵臓がんで腹腔鏡手術 まだまだやる気、元気があるようだ。 「でも、実は4年前、人間ドックで膵臓がんを指摘され、腹腔鏡手術を受けたんです。膵臓がんは早期発見が難しいがん。ボクは幸い初期だったので、化学療法などは受けずにすみ、手術1カ月後にはゴルフでラウンドをするまでに回復。手術後の検診でも今のところ問題なし、です」 日焼けした顔、引き締まって健康そうな体は、とても“がんサバイバー”とは思えない。 「週3、4回、自転車で20キロ走っています。休みの日は、ひたすら妻や高校の同級生とゴルフ。スコアは平均80台後半です」 11歳年下の元日本航空の客室乗務員の夫人とは、2000年12月に結婚。1女に恵まれた。 「47歳にして初めて授かった子どもでして、娘はまだ高校2年生。だから、娘が大学を卒業するまではがんばって働かなくてはいけない、という事情もあります(笑)」 都内で家族3人暮らし。 さて、東京・中野区生まれの藤井さんは、高校時代からアナウンサーに憧れ放送研究部に所属。駒沢大学1年次からアナウンススクールに通い、卒業後の1984年、テレビ朝日に入社した。 翌85年、バラエティー番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」に“まじめなアナウンサー”として出演を始め、さらに小堺一機、鳥居かほりと3人組“サンドイッチ”を結成。「想い出して下さい」を歌い大ヒットさせた。 「ボクが入社試験を受けた当時、“視聴率3冠王”を取って勢いのあったフジテレビに比べ、テレビ朝日は堅いイメージがあった。それで、『明るくてバカになれる学生を採ろう』という人事の方針があったそうで、だからボクがバラエティーに投入されたのかも。“サンドイッチ”は番組収録中、着物の着付けに時間がかかっている女優さんがいたので、欽ちゃんから場つなぎのために呼ばれ、突然裏から出ていったら結成することに。緊張しましたけど、楽しんでやっていましたね。『想い出して下さい』は当時の人気歌番組トップスリーの『ミュージックステーション』『ザ・ベストテン』『歌のトップテン』でも歌ったんですよ。そんなアナウンサー、ボクぐらいじゃないですか!? 今も講演などに行くと覚えていてくださる方も多く、“オレもまんざらじゃないな”とうれしくなります(笑)」 “サンドイッチ”で共演した鳥居かほりと88年に結婚したが、99年に離婚。 「彼女は良い意味で男前。ボクが子どもを望んでいたことが別れのきっかけです。でも、ケンカしたわけではなかったから、別れてからも連絡をとっていました。再婚を機にやめましたけどね」 (取材・文=中野裕子)