ケネディとバーンスタイン、20世紀を代表する大統領と音楽家の友情と意外な一面
家族ぐるみの思い出
2人の友情には個人的な側面もあった。1961年11月、ケネディ夫妻はバーンスタイン夫妻をホワイトハウスでの私的な夕食会に招待した。雰囲気はとてもカジュアルで、皆で応接間に移動すると、バーンスタインは床に寝転がり、ケネディの妹であるユーニス・シュライバーと電話でおしゃべりした。 パーティーは午前2時まで続いた。バーンスタインはケネディ図書館のインタビューで、「私たちはただ笑いながらおしゃべりしていました。とても楽しい夜でした」と語っている。 バーンスタインはまた、ケネディはジョークが上手だったと振り返っている。1962年1月18日、作曲家のイーゴリ・ストラビンスキーをたたえる夕食会で、バーンスタインとストラビンスキーが頰にキスをしてあいさつを交わすと、ケネディが「私には?」と割り込んできた。 2人の友情は、家族ぐるみの付き合いとなるほど親密だった。バーンスタインはケネディの娘であるキャロライン・ケネディとコンサートのテレビ中継を見たことがあり、ケネディはバーンスタインの父親に誕生日カードを送った。 バーンスタインはジャクリーン・ケネディとも親交を深めた。ジャクリーンは1962年9月23日、バーンスタインが指揮者を務めるフィルハーモニック・ホール(現デイビッド・ゲフィン・ホール)のオープニングに出席した。プログラムの休憩時間、テレビ中継の一部として、ジャクリーンは舞台裏を訪ねた。そして、事態は思わぬ展開となった。 「私は彼女(の頰)にキスをしました」とバーンスタインは気まずそうに振り返っている。「友人のジャッキーにキスをしたというより、コンサート後に舞台裏まで来てくれた人にキスをしたという感じでした」。この瞬間がテレビ中継され、この奇妙な再会に注目が集まった。「今でも忘れることができません」
友人の遺志を継ぐ
1963年11月22日、ケネディは暗殺された。46歳だった。 ショックを受け、打ちのめされたバーンスタインは、友人の遺志を継ぐことに決めた。11月24日、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニックのテレビコンサートの指揮を執り、ケネディを追悼するためにグスタフ・マーラーの「復活」を演奏した。 翌日、バーンスタインはユダヤ人の慈善団体「ユナイテッド・ジューイッシュ・アピール(UJA)」でのスピーチで、「これまで以上に激しく、美しく、そして献身的に音楽を奏でる。これが暴力に対する私たちの回答です」と誓った。 バーンスタインはこの誓いをそのまま実行した。1971年9月8日、ジョン・F・ケネディ・センターが開館したとき、ジャクリーンが依頼したバーンスタインのミサ曲が最初の公演として演奏された。 それでも、バーンスタインは友人の死に打ちのめされていた。バーンスタインは1965年、ケネディ図書館のインタビューで、「まだ乗り越えることができません。皆、同じだと思います」と語っている。
文=Parissa DJangi/訳=米井香織