【プレイバック’94】「さぞかしつらい日々を送って…」全勝初Vの武蔵丸にハワイの母がこぼした涙
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’94年8月5日号掲載の「次は綱獲りだァ!ハワイのママも踊った武蔵丸『全勝V』の瞬間」をお届けする。 【狂喜乱舞】すごい…初Vが決まった瞬間、ハワイの自宅で踊り始めた「武蔵丸のママ」 アメフトで大学からスカウトされていたものの、経済的理由で進学を断念した武蔵丸。それまでまったく知らなかった相撲の世界へ海を渡って飛び込んだ青年の夢が来日して5年で実を結んだ。高見山、小錦、曙もなしえなかった外国人力士初の全勝初Vを成し遂げた当時大関の武蔵丸。その瞬間のハワイの実家の様子だ。(以下《 》内の記述は過去記事より引用) ◆ハワイの家族は狂喜乱舞 《ハワイ・オアフ島にある武蔵丸(当時23)の実家は、庭にマンゴーの木の生えた、当地ではごく平均的な広さの家だ。おととしの台風では屋根がとばされてしまったのだという。16日深夜、そこで質素に暮らす両親と兄弟、ごく親しい人らが集まり、千秋楽の実況中継を見守っていた。 武蔵丸の下手投げが決まった瞬間、それまでの静寂が一気に破れ、「ワォーッ!」 という歓声が上がった。一同、狂喜乱舞。 母ニマラ・ペニタニさん(47)が踊りはじめ、兄弟たち(武蔵丸は8人兄弟の三男)が部屋中を駆け回った。 「とても、とても嬉しい」 涙を浮かべたニマラさんがそう言うと、皆が寄り添ってきて互いに抱き合い、喜びを分かち合っていた。父親のマヌさん(66)は身長160cm台。兄弟たちもほとんどが中肉中背で、決して〝巨漢ぞろい〟ではない。西サモアからの貧しい移民だったペニタニ家に〝いちばん大きな孝行息子〟が大きな幸せをもたらしたのだ。》 平成元年(’89年)秋場所の千代の富士以来、5年ぶりとなる全勝優勝のおまけまでついた初優勝は、武蔵丸本人にとって実は〝4度目の正直〟だった。武蔵川部屋ではこれまで3回優勝パレードの準備をしながら、実現しなかったのだという。それは、豪放な外見とは裏腹にここ一番というときにはカチンコチンに緊張してしまう武蔵丸の〝ノミの心臓〟が原因だった。そんな武蔵丸がここまで力をつけてきたのは強烈なハングリー精神があったからだった。 《以前、ハワイの軟弱弟子に懲りた武蔵川親方は3ヵ月間観察をして、武蔵丸の我慢強さに驚嘆、「これなら大丈夫」と入門を許したという。 おかみさんの洋子さんによると、「一時、ひどいホームシックにかかったけど、特別扱いはしなかった」そうだ。ひたすら〝土俵の下にはカネ〟を信じて乗り越えたのであろう。 「さぞかし力を尽くして、つらい日々を送って……だから息子にはありがとう、 おめでとうと言いたい」 母ニマラさんは涙ながらにこう語った。》 その充実ぶりから、すぐにでも横綱に手が届きそうだった武蔵丸。そうなればハワイのママの「嬉しい」踊りがもう一度見られそうである。 だが、ここから武蔵丸は何度も綱獲りに挑みながらも、あと一歩およばない日々が続く。結局、’99年にようやく第67代横綱となった。大関昇進から32場所という史上1位タイとなるスロー昇進となった理由について、武蔵丸は「お酒を飲んだり、ちょっとふらふらしてたかな。酒をやめて、相撲に集中してやろうと思ったらすぐに上がったな」と、’21年5月のデイリースポーツのインタビューで語っている。 ’96年に日本国籍を取得し、日本人として横綱となった武蔵丸は日本と相撲界の恩返しを残りの人生の使命としているという。現在でも相撲協会にとどまり、武蔵川親方として弟子の指導に当たっている。
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