日中つなぐ場守りたい 中国語教室
名古屋・栄に立つビルの一室から、中国語と日本語が交じった楽しげな会話が聞こえてくる。 「多くの華僑のふるさとは、中国のどこ?」「もちろん、福建省でしょう」 中国人講師の問いかけに、日本人の生徒が答える。その様子を、白髪の女性がひときわうれしそうに見つめていた。「お互いの文化を学び合う場を守りたい」。そんな思いで、この教室――なごや蝴蝶(こちょう)書院の書院長を務めているのが、日本人の任(にん)房代さん(77)だ。 蝴蝶書院には、約20人の日本人が通う。旅行や仕事をきっかけに中国に興味を持った人たちだ。講師は日本の大学で中国語を教えている中国人らが務め、週に2日ほど開いている。華道や茶道など日本文化を学ぶ中国人向けのクラスもある。教室名は、「幸福」をイメージして名付けられた。 生徒の一人は「中国語が身につくだけでなく、中国の色々な話ができるのも楽しくて続けている」と話す。 ◇ 任さんは、岐阜県八百津町の生まれ。実家は米を扱う商家で、3人きょうだいの一番上。勉強好きで好奇心の強い子どもだった。 18歳からは中京病院(名古屋市)で事務員として働き、研修医だった中国人の夫・義雄さん(85)に出会う。第一印象は「物静かで真面目そう」。1900年前後、福建省から日本に渡ってきた華僑の孫にあたる。 当直勤務が重なった日の空き時間、「一緒にやりませんか」と卓球に誘われたのをきっかけに仲良くなった。ある日、義雄さんの車の中に中国語の教科書を見つけた。「私でも勉強できますかね」「できるよ」。そう背中を押してくれた。 ◇ 「中国人なんかと結婚させたら村八分にされる」「日本人なんて嫁にもらったら中国人社会から除外される」。時代は1968年。日中の国交が正常化する4年前のことだ。お互いの家族に結婚を報告すると猛反発を受けた。 それでも二人はめげなかった。任さんは、親戚の子どもから「日本鬼子(日本人への蔑称(べっしょう)」と言われても、勉強した中国語で話しかけた。義母が得意な中華料理の作り方もすすんで覚えた。 義雄さんも、病気になった任さんの祖父を診療するため、名古屋から八百津町まで車で片道1時間かけて会いに行った。自分たちから歩み寄ると、どちらの家族も属性ではなく、一人の人間として接してくれるようになった。 ◇ 76年、二人は名古屋市天白区に「にん内科」を開業。中国語も話せる任さんは、夫の仕事を支えながら、愛知に住む中国人らでつくる華僑団体にも頼られる存在となった。 仕事や生活の情報を交換し合うイベントを開いたり、団体で中国を訪れて現地の人たちと交流したり。2019年、そんな流れで頼まれたのが、中国語教室の運営だった。 愛知には、30年以上前から続く中国語教室があった。ただ、代表を務めていた名古屋大の名誉教授が亡くなると、その後、存続が危ぶまれた。任さん自身も教室が始まった頃からの生徒の一人。「ぜひやりましょう」。迷いはなかった。 ◇ 任さんが最初に中国を意識したのは中学時代だ。先生から「貧富の差もない、いい国」と教わり、パール・バックの「大地」を読んで中国の広大な自然に思いを巡らせた。 だが国交正常化後、義母の故郷の福建省を二人で訪れると、お風呂や電気のない貧しい村を目の当たりにした。中国の現実、複雑な日中関係……。「就職に有利」といった理由で生徒数が増えたこともあったが、中国の印象が悪くなるニュースがあると辞めてしまう。そんな時も諦めずに、生徒の募集や経理などの仕事を一手に引き受けてきた。 教室の存続にこだわる理由について、任さんは言う。日本と中国の間で生きることを決めた限り、二つの国の人々をつなぐ場を失いたくないのだと。「蝴蝶書院」という教室名に込めた幸福が、いつか両国の間に訪れると信じて。
【取材後記】
今年9月、中国の深センで日本人学校に通う男児が襲われる事件が起きた。愛知に住む中国人の思いを取材する中で出会ったのが任さんだった。 記者は広島県に住んでいた高校生の頃、県が友好提携を結ぶ四川省にホームステイした。中国人の一家は歓迎してくれ、同年代の娘さんとは、中国でも大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」の話題で盛り上がった。 その思い出を話すと、任さんはほほえんだ。「互いに『人』として接すれば、理解し合えるチャンスはある」。任さんからは、そんなメッセージをもらった。(西谷有理沙 24歳)