菅田将暉が演じた転売屋は「資本主義の象徴」 黒沢清監督がキャラクター誕生秘話明かす
役柄の参考を求めた菅田に黒沢監督が伝えたのが、アラン・ドロンの代表作でもある『太陽がいっぱい』(1960年・ルネ・クレマン監督)。作品との共通点は、主人公が「真面目にコツコツと悪事を働く青年」であることだ。
「ふと思いついただけなんですけど、菅田さんにとっては新鮮だったようですね。『太陽がいっぱい』が公開されたころは、まだまだ貧困や差別が社会に歴然とあった時代ですから、貧しい若者が生きていく1つの手立てとして悪事を働くっていうのがフィクションの中では正当化されていたように思います。そういう映画が他にも結構あったと思うんですが、ある時から、少なくとも日本ではそういう悪者、犯罪者がフィクションの中にいなくなりましたね。犯罪を犯すっていうと遊び半分とか純粋に金が欲しいとか、割と世の中に対して斜に構えていて、世間をちょっと舐めたような態度で犯罪に走るようなフィクションはあるんですけども、真面目にコツコツと悪事を働く主人公って近年はあまり描かれていなかったように思います」
一方で、吉井が完全なる悪人ではない象徴として描かれるのが、恋人・秋子との関係だ。「欲しい物がたくさんある」と言い、退屈になると姿を消してしまうような気まぐれな女性として描かれているが、黒沢監督は秋子の役割をこう語る。 「昔の娯楽映画にはああいう人物がちょこちょこ出てきたんですけど、古川さんにはそのイメージを演じてもらいました。そんな彼女のことを、吉井がどこまで信じているのかはわかりませんけれども、彼女との未来に実はかなり、本気で希望を持っていると思います。 基本的には吉井はお金を儲けて増やすことを生き甲斐としている人間なんですけど、お金が全てというわけではなく、単に打算的に生きているわけではない。秋子に代表される、他人とうまく関係を作って希望の持てる平和な幸せが将来手に入るといいなと、どこかで信じている。吉井にとって秋子が唯一の救いであり、その象徴として描きました」
真面目に、コツコツと転売を成功させていく吉井は、その果てに何を手に入れるのか。吉井が巻き込まれていく集団ヒステリーの仕組みは現代日本の縮図のようでもあり、見終えた後、言い表し難い感情が湧き上がるはずだ。(取材・文:編集部・石井百合子)