明治天皇が「いい加減にしなさい」と叱った、伊藤博文の“奔放すぎる女遊び”とは
初代内閣総理大臣・伊藤博文(いとうひろぶみ)。女好きで知られる彼は、当時から新聞で奔放な女遊びの様子が報じられ、ついには明治天皇も「伊藤、いい加減にしなさい」と注意したという。どのような遊び方だったのだろうか? ■天皇の御前にも芸者を連れて行く 「伊藤博文は手当たり次第、女性と見れば交わっていった」と言われますが、事実だろうと痛感させられる逸話が明治時代の新聞記事には数多く見られます。 明治天皇があまりに奔放な伊藤の女遊びを咎め、「伊藤、いい加減にしなさい」と注意した逸話は有名ですが、伊藤には天皇の御前に伺候(しこう)するときも芸者を連れて出かけていたという驚愕の事実まであります。 葉山の御用邸で静養中の明治天皇からのお呼びがあったので、伊藤博文はたびたび関東まで出張させていた大阪新地の小吉、そして伊藤の随行者の桂太郎は、新橋のお鯉という芸者を連れていました。 さすがに芸者たちが入れたのは控えの間まででしたが、これは明治天皇ならずとも「伊藤、いい加減にしなさい」と言いたくなりますね。 ■妻のいる屋敷で、芸者とかわるがわる性交 時期は明治33年(1900年)前後のことであろうかと考えられますが、ふだん大阪新地で芸者をしていた小吉(のちの樋田千穂)は、伊藤博文から毎月200円を「お手当」として受け取って、愛人契約をしていました。当時の1円=現在の1万円程度と考えると、月収200万円……。 明治33年といえば、伊藤博文は立憲政友会を結党して初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣しています。内閣総理大臣の愛人ともなれば、とんでもない「お手当」が期待できました。 小吉は文公という大阪の芸者と共に小田原にあった伊藤の本邸・滄浪閣(そうろうかく)に出張しており、正妻の梅子夫人からは歓待され、伊藤家には「顔パス」で出入りできたそうです。 愛人契約が終了した後も、伊藤は小吉こと樋田千穂を庇護(ひご)し、彼女は後に新橋の料亭(待合)・田中屋の女将になりました。樋田によると、彼女は伊藤博文が「お爺さん」ではあるが「天下の伊藤公」であることに最大の価値を見出しており、「惚れてはゐませんでしたけれども、(夜の方面でも)お相手をいたしました」とのことです。 しかし、惚れていないとはいいながら、「伊藤の夜の行儀は悪かった」と聞くと腹を立て、伊藤は芸者たちを二人同時に相手にするような下品なことはしていないと擁護しているのです。 同時ではないにしても、芸者二人を代わる代わる抱いたのは事実で、いくら広いお屋敷とはいえ、正妻も傍にいる自邸で、大阪から呼んだ二人の芸者を毎晩交代で抱いて、その後、3人で川の字になって同じ蒲団で寝ている内閣総理大臣というのも物凄い話ですね。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹