巨大ポンプ車「大キリン」を無償提供 原発事故の危機的状況を救った中国企業 #知り続ける
福島中央テレビ
あまり知られていない、あるいは忘れられてしまった重要な事実がある。約13年前に起きた福島第一原発の事故で最大の危機とされたのは水素爆発や漏れ出た放射性物質による被ばくではなく、4号機の核燃料を保管するプールだった。プールの水が干上がれば1535体の核燃料が溶けだし、膨大な量の放射性物質が人々が暮らす環境中に放出され、東日本に人が住めなくなると予測された。その危機を食い止め、暴走する原発を安定化させるに至った背景には、ある中国企業の「善意」があった。 津波に流された夫、叫んでくれた「私の名前」 胸に刻んで13年 #知り続ける
死と隣り合わせの現場…「何かできないか」中国出身男性の思い
その光景は現場で事故収束作業にあたった人たちの脳裏に今もこびりついている。2011年の3月12日と14日、15日に起きた福島第一原発の水素爆発。吹き飛ばされた無数のコンクリート片が地上に砕け落ち、大量の放射性物質が周囲に撒き散らされた。死と隣り合わせの状況下で、原子炉建屋のすぐ傍にいた作業員や自衛官たちは「まるで戦場のようだった」と語る。 「ものすごい音がして、何かが吹っ飛んできて建物のガラスとかも一気に壊れて…」。 「人の頭ほどのコンクリートが空から降ってくる、あたったら死ぬと思った」。 「(爆発は)響く音でした。そして放射能を含んだ煙が迫ってきて、被ばくしないために、みんなで一斉に車の中に逃げて…息を殺して煙が通り過ぎるのを待って…」。 汚染された無数のガレキが散乱する現場では作業員らが被ばくを覚悟で作業にあたった。1、2、3号機では核燃料が溶けるメルトダウンが起き、消防ポンプ車による懸命の冷却が行われていた。 都内の会社事務所のテレビの前で、この状況を固唾をのんで見守っていたのが、建設機械の販売会社の社長で、中国出身の龍潤生(りゅう・じゅんせい)さん。「何か自分にできることは…」と強く感じたという。 「1993年に日本に留学してから大学院修了まで、学校やアルバイト先などで多くの日本人に親切にしてもらった。『一滴の水をもらったら、できるときはバケツで返す』と親から教えてもらっていたから、日本を救いたいという気持ちだった」。