堀米雄斗 メン・オブ・ザ・イヤー・ベストアスリート賞 ──スケートボード道を極めたクールな修行者
東京五輪からパリ五輪までの3年間、地獄のような日々に耐えた堀米雄斗。苦境を乗り越えての連覇を果たした今、王者の視線はロスを捉えている。 【写真を見る】堀米雄斗の拠点、ロサンゼルスでシューティング!(全14枚)
五輪とスケートボードカルチャーの両立
奇跡の大逆転でオリンピック2連覇を成し遂げてから、堀米雄斗はさまざまなメディアに登場してきた。難度の高いトリックを決める競技中の華麗な姿とは対照的に、オフステージの堀米は物静かで派手なことは好まないタイプに思える。今回は堀米の拠点であるロサンゼルスで撮影を行ったが、彼が積極的に取材に応じるのは、スケートボードというカルチャーを日本に浸透させたいという想いからだろう。 オリンピック直後の喧騒が収まったいま、改めて自身の快挙を振り返ってもらい、スケートボーダーとしての未来を語ってもらった。 「一番うれしかったのは家族と会えたことですね。オリンピック期間中は会えなかったので、日本で再会できた瞬間が一番うれしかったかもしれません。また、自分がずっと憧れてきたスケート界のレジェンド、ジーノ・イアヌッチさんから“金メダル、おめでとう”というメッセージをいただいたことにも感激しました」 米国ニューヨーク州ロングアイランド出身のジーノ・イアヌッチは1973年生まれで、1990年代からシーンを牽引してきた。堀米は、父から勧められたイアヌッチの映像作品を何度も繰り返して見て育ったのだという。 こうして頂点に立った喜びを噛み締めつつも、堀米雄斗には浮かれたところがない。地に足のついた人物であることは、質問の内容を咀嚼して言葉を吟味して答えるインタビュー中の様子からも明らかだ。グレーなどの暗い色を好み、コーディネートもモノトーンが多いこともあって、普段の堀米はスーパースターというイメージとはちょっと異なる。むしろ、スケートボード道を極める修行者のような雰囲気すら漂う。 ここでパリ五輪に話を戻そう。直後のインタビューで印象的だったのは、「金メダルを獲った東京五輪の後の3年間は地獄のような日々だった」という発言だった。 「東京五輪が終わってから急激な変化があって、それについていくことができませんでした。スケートボードって大会だけじゃないカルチャーがあって、だから好きになったわけですが、五輪の後、スケートボーダーとしてこれからどう生きていきたいのかという葛藤が生まれました。すると、大会でも結果が出なくなって……」 大会で成績を残すこととスケボーのカルチャーとの間で板挟みになった結果、自分の力だけではどうすることもできないほど落ち込んでしまったというが、そんな堀米を“地獄”から救ってくれたのは仲間の存在だった。 「コーチをはじめ、周りの人たちが支えてくれて、応援してくれたことが大きかったですね。もうひとつ、東京で納得のいくビデオパートを制作できたこともいいきっかけになりました。子どもの頃から父に格好いい映像を見せてもらってきたので、自分が納得できる映像作品を残さないと大会にも集中できないですし、僕のスケートボードが完成しない気がしています」 周囲に支えられ、映像作品の制作に取り組むことでモチベーションを高めていった時期に、あのオリンピックの決勝で決めたノーリーバックサイド270ブラントスライドが生まれる。 「パリ五輪の予選シリーズでなかなかうまくいかなくて、なにかしら変えないといけないことには気づいていました。結果が出ない時期に、考え抜いたアイデアがあのトリック。最後は金メダルだけを狙って勝負に出ました」 あのトリックには3年間の思いが込められていたのだ。だからこそ最後まで諦めずに挑んだ。 「点差もわからなかったですし、イヤフォンを着けていたけれど音楽は聴いていませんでした。これが最後だという吹っ切れた気持ちもあって、トリックだけに集中できました」 苦難を乗り越えたいま、2028年に開催されるロサンゼルス五輪までの4年間はどのような日々になるのだろうか。 「子どもの頃はアメリカでプロになることを夢見ていて、その憧れの場所で次のオリンピックがあるわけですから、絶対に出たいですね。その道のりもまた過酷であることは覚悟しています。次も正直、同じような苦しい日々になりそうですが、さらに成長した自分となってロスの舞台に立てるよう、全力でがんばりたいと思います」