大阪・戦争の事実知って 地元を追うラジオ報道マンの生き方
大阪・戦争の事実知って 地元を追うラジオ報道マンの生き方 THE PAGE大阪
「地元でこんなことがあったんか。これは調べな」──。1945年7月26日、米軍の爆撃機B29が大阪市東住吉区に大きな爆弾を落とし7人の尊い命が失われた。50年後、それは「模擬原爆」であったことが判明した。広島・長崎に原子爆弾を落とす前後に、米軍が試験的に同じ大きさの爆弾を投下し、その後すぐに旋回するための訓練だったといわれている。その事実を知り「地元のことは調べつくす」とばかりに一人のラジオ報道マンが立ち上がったのは20年前のことだった。
会社勤め時代にできなかった地元掘り起こし
東住吉区に住む吉村直樹さん(68)は、ラジオ大阪で制作報道の仕事に携わるなどしている。「会社勤めのころは、正直地域のことにかかわってなかったんやけど。10年くらい前に地元の大きなクスノキを保存する運動にかかわって以来、地域にとけこむようになった」と振り返る。 地元である「田辺」の歴史をいろいろ調べた。かつてこの地でつくられていた「田辺大根」が大阪府内の農林センターにあると聞くと、その種を手に入れにいったり、落語の寄席を開く世話人を務めたりと。そうして地域の仲間とふれあううちに、ある出来事について知った。それは、1945年、田辺に落とされたという「模擬原爆(通称・パンプキン爆弾)」のことだった。 「今から20年ほど前、愛知県春日井市の市民団体の方々が終戦50年後に公開された米軍資料から、国内に49発もの模擬原爆を投下したという資料を見つけ公表したんです」。後にそれが全国紙で報道され、その中に地元である「田辺」の地名が記されていた。
少しずつ広がりつつある模擬原爆の事実
「これを見てすぐに調べようと思った」と当時を振り返る吉村さん。自身もラジオ報道で戦争の証言の声を集め、ドキュメンタリー番組を作るなどしていたため、まずはこの爆弾を知る人を探した。「ぼくも地元なんで、爆弾が田辺に落ちたという事実は聞いてたけど、ずっと1トン爆弾と聞いていた。だから落ちた時のことを知る人は多いと思って探してみたんやわ」 そうした活動を続けるうちに、テレビなどマスコミが田辺の模擬原爆についても報じるようになった。すると、その報道を見た男性が「自分の父が亡くなったのは模擬原爆だったのか」と名乗り出た。 「少しずつ知られるようになって、父親を亡くされた方が爆心地の近くに土地を持っていた。そこへ『親孝行』ということで模擬原爆の碑を建ててくださった」。また、地元の小学校などが「平和学習の一環」として田辺の模擬原爆について知りたいと申し出てきた。 また、こうした活動をみた地元の人たちも協力。爆心地近くにある恩楽寺(乙部正信住職)は、爆心地跡地などを見に来た小学生に模擬原爆のことを講演する際に本堂を講演場所として提供。しかも、同寺は爆心地から約150メートルということで本堂は爆風を受け少し傾いている。その模擬原爆の衝撃を伝える場にもなっているという。