国のチグハグに翻弄され 失敗の烙印押された青森市の「コンパクトシティー」構想 #ニュースその後
言葉が独り歩き 当時の市長「心外だ」
「コンパクトシティーという言葉だけが独り歩きし、僕から言わせると大変心外だ」 1989年から約20年間、青森市長を務めた佐々木誠造氏(90)は取材に渋い表情で語った。 佐々木氏は99年、中心に商業施設などを集め、その周辺を居住エリアに、その郊外は開発を制限して豊かな自然を保護するという3層に分けた都市計画をつくり、「コンパクトシティー構想のはしり」として注目された。 当時、佐々木氏は建設省(現国土交通省)などの官僚に都市計画について説明を求められ、霞が関に何度も足を運んだ。「官僚から、首相官邸で説明するから教えてほしいと請われたこともあった。それほど国は青森の計画に関心を持っていた」
居住地の議論はどこへ 商業主義にとらわれて
だが、コンパクトシティーの意味合いは次第に変わる。郊外に広がった居住地を中心部に集めるという概念は薄れ、商業主義を前面に打ち出した「中心地のにぎわい」という議論に偏っていった。佐々木氏は「街の真ん中さえ栄えればよいと誤解する市町村がいっぱい出てきた」と振り返る。 商業主義にとらわれていたのは国も同じだった。国は07年、中心市街地活性化法に基づき青森市のコンパクトシティー計画を認定。補助金を出す代わりに、アウガ周辺の歩行者交通量や小売業の商品販売額などの決められた指標について、年度ごとにチェックした。 青森市で経済部門を長く担当し、副市長なども歴任した佐々木淳一氏(69)は「都市の特性はさまざまなのに、国が一律の指標を定めて計画を管理するのは、当時からおかしいと思っていた」と明かす。 だが、国からは数字で成果を求められた。「制度に加わった自分たちも毎年、成果をアピールしないと次はない。だから目先の成果が出やすいハコモノにとらわれすぎた」 青森市は、国の支援を受けてアウガ周辺のハコモノ整備を進めた。ねぶた文化施設や市民ホールが整備されたが、人口減少が進む中、集客は進まず、街中心部のにぎわいは年々失われていくように感じられた。 結局、市は計画した交通量や商品販売額などの目標値を最後まで達成できなかった。