AI時代の生き方の回答はSECIモデルにある
──前々回の記事:これからの時代こそ、「野中理論」が必要になる(連載第39回) ──前回の記事:知識を創造するSECIモデルの根幹にあるもの(連載第40回) ■知の創造の動的プロセス SECIモデルの根幹は、組織内における個人と個人、あるいはより多くの人たちの間での、暗黙知と形式知のダイナミックな相互作用である。図表1でいえば、2つの氷山がぶつかりあい、その海上と海面下の間で知がダイナミックにやり取りされるイメージだ。組織は最少で2人からなり、それぞれが暗黙知、形式知を持つので、結果としてこの知の相互作用プロセスは「2×2」で4つのパターンに分けて説明できる。それぞれを「socialization」「externalization」「combina-tion」「internalization」と呼び、その頭文字をとってSECIモデルと呼ぶわけだ。今回は後半の2つ「combina-tion」と「internalization」を見ていこう。 ■(3)連結化(combination):形式知→形式知 集団レベルの形式知を組み合わせて、物語や理論に体系化する 表出して形式化された知は、組織全体で集められ、組み合わせられ、連結されて、「組織の知」としてまとめられ、伝えられる必要がある。現場レベルで言えば、マニュアル・設計書・計画書などの形での体系化がそうだ。次章では良品計画のMUJIGRAMの「アップデートするマニュアル」を紹介しているが、これも、現場で顧客・同僚との共通体験(共同化)など共有した暗黙知を形式知化し、そしてマニュアルに連結させているととらえられるだろう。 しかし、現場の知ならマニュアル化も機能するが、会社の信条、方向性、戦略のような「認知的な暗黙知」を形式知化させた場合、それはマニュアルでは伝わらない。そこで必要になるのが、ナラティブである。 ナラティブ(物語る) ナラティブは「物語る」という意味だ。物語とは、「まだ具現化していないが、これから起こる」ことの構造である。例えば「会社の方向性」といった形式知のかたまりは、過去から引き継がれ、未来に続いて「これから起こる」ものだから、物語りでなければならない。 そしてナラティブは、単なるストーリーという名詞ではない。「物語る」という動詞である。すなわち、物を語る主体(例えば経営者)と、それを聞く従業員が同じ場を共有し、そして経営者の語り方は、その場の「文脈」で様々に変わるはずだ。まるでフリージャズのセッションのように、その場の雰囲気をつかんで、話し方も声のトーンも、立ち振る舞いも臨機応変に変えながら語る必要がある。 実際、先にも挙げた孫正義氏や永守重信氏は、まさにナラティブの天才だ。最近なら、トヨタ自動車の豊田章男氏もナラティブに長けている印象だ。同氏が2019年に母校である米バブソン大学で行ったスピーチは感動的で、大変話題になった。野中は他にマイクロソフトCEOのサティア・ナデラ氏を挙げている。一時期低迷していた同社がクラウドの会社として復活した背景には、彼のナラティブがあった、ということだ。 ■(4)内面化(internalization):形式知→暗黙知 組織レベルの形式知を実践し、成果として新たな価値を生み出すとともに、新たな暗黙知として個人・集団・組織レベルのノウハウとして「体得」する 具体的な行動、アクションのことだ。連結化されて紡がれた形式知も、それをもとに行動されなければ意味がない。実際に行動し、価値を出し、それを反復してやり続けることで、組織はそれをまた暗黙知として昇華させていく。そして、この暗黙知がさらにまた共同化されて、表出化され、連結化されて……というダイナミックなサイクルが回ることで、やがて形式知と暗黙知がそれぞれ増大し、組織は知識を生み出していくのである。 ■共感と知的コンバット 野中教授が本当に偉大だと筆者が感じるのは、いまだにこのSECIモデルを進化させ続けていることだ。そのために、80歳を超えられたいまでも、貪欲に日本中の現場を回られている。先に紹介した『直観の経営』の中でも、ポーラ化粧品の近年の大ヒット「リンクルショット」の開発ストーリーを取材された形跡があるし、いま注目されているHILLTOPの京都宇治の現場にも足を運ばれたようだ。加えて言えば、野中教授はいまだに海外の学術誌に論文を投稿されて、掲載もしている。 『直観の経営』で野中教授が語るのは、SECIモデルは現象学と親和性が高い、ということだ。これは、フッサールやメルロ・ポンティなどが確立した哲学の一種である。端的に言えばそのエッセンスの一つは、「主体と客体の同一性」にある。従来のデカルト的な二元主義の科学観では、分析相手や対話の相手はあくまで「自分から完全に切り離された客体」であった。一方の現象学では、主体と客体の一致を唱える。まさに「他者との共感」だ。先に述べたように、共感はSECIモデルの共同化に不可欠なプロセスだ。 筆者が野中教授と対談した時もまさにこの話題になった。そこで野中教授が語ったのは、稲盛和夫氏が創業した京セラでのコンパの模様である※8。 京セラのコンパというのは、本社の12階にある百畳敷きの和室でやるんです。畳の部屋には理由があって、椅子だと自由に移動できず、身体の共振が起こらないからなんです。 その部屋で肩を寄せ合い、みんなで一つの鍋をつつき、酒を飲みながら本音で対話をする。手酌は御法度。自分の盃に注ぐのはエゴイズムの象徴だということで、ひたすら相手に注ぎまくる。それをみんなでやっているうちに、どれが誰の盃かわからなくなって、考え方もme thinkingからwe thinkingになっていく。 あのような会社では、三日三晩飲みまくるとか、本当にやるんです。そうすると、もう幼児のような状態になって、本質を求める「Why?」の意識が脳の感覚質に入ってくる。徹底的に議論を重ねるうちに、地下水のような共通感覚に到達し、互いに「そうとしかいいようがないよね」というところまで行き着くんです※9。 おもしろいのは、ビジネスジェット機「ホンダジェット」のプロジェクトリーダーだった藤野道格さんの話です。 アメリカでは酒を飲みながらワイガヤしたのかと私が聞いたら、そうじゃないと。酒を飲まなくても、まっとうに向き合えば全人格的な議論はできるんだと。日常の仕事の中で矛盾を解決するときは、必ず1対1で全人的に向き合ってやる。 それがワイガヤの本質なんだと話していました。 こうした、まさに全人格をかけた知の格闘をすることで、やがて互いが「我、汝」の関係になっていき、現象学の主張するように、主体と客体が一体化していくのである。結果、共感が発生し、共同化が進んでいく。 この意味で、野中はいま企業で導入されているブレーンストーミングに懐疑的だ。実際、ブレストからはなかなかアイデアが出ないという経営学の研究結果については、前章で述べた。必要なのは、「共感・共同化に到るまでの徹底的な知的コンバット」なのだ。コンバットをするには、快適なコワーキングスペースでゆったりと椅子に座って、ポストイットを使って多人数で行うブレストは「快適すぎる」のだ。 そう考えると、いまの時代、一対一で徹底的に、何日も何日も知的コンバットをしているビジネスパーソンはどれくらいいるだろうか。よく考えれば、成功した企業の創業者は2人組であることも多い。ソニー創業者の井深大氏と盛田昭夫氏や、ホンダの本田宗一郎氏や藤沢武夫氏は、毎日のように2人で知的コンバットをしていたのではないか……。