明治維新で「殿様御殿」は”不夜城”に様変わり! 富山藩主別邸《千歳御殿》の辿った運命とは
花街《桜木町》の再興
大正初年に発行された『富山案内』は、「千歳御殿」の場所の履歴を次のように記す。 「「千歳御庭跡」──今の桜木町之なり。旧藩主の先代龍澤院利保の別荘にして嘉永二年五月の建築にかゝり結構壮麗を極めしが安政二年の大火に焼失し其後再び築造せられしが廃藩となり共に毀たれ其後青楼軒を並べ所謂不夜城の花街となりしが、明治三十一年の大火に灰燼に帰してより寂寥静閑なる巷となり今は僅に富山ホテルの外数軒の料理店を存するに至れり……。」 藩主の別荘から「不夜城の花街」となった《桜木町》は、明治32年の大火によって焼失し、貸座敷の再建を禁じられた結果、「寂寥静閑」の巷へと変じていた。 ところが、それからわずか1年後には、「今や続々料理店の設立ありて往時の観を復せんと」するほどのにぎわいをみせはじめる(『富山案内記』)。おそらく、市全体の復興と連動していたのだろう。貸座敷の移転後もとどまって営業をつづけた料理屋に、新しく参入した店もくわわり、高級な料理屋街として再興したのである。花街となるのは時間の問題であった。 この段階では、芸妓置屋の設置は認められていないものの、いつとはなく料理店が独自に芸妓を置くようになり、旧遊廓たる《桜木町》は、《東新地》の「廓芸妓」に対する「町芸妓」の本場、つまり花街にうまれかわった(吉田清平編『富山市商工案内』)。 《桜木町》のこうした既成事実を追認するかのように、大正14(1925)年3月、芸妓置屋の営業が許可された。下屋敷から遊廓へと転じた《桜木町》は、遊廓が移転してから20年以上の歳月をへて、戦後までつづく町芸妓の花街となったのである。 (『花街』より) 全国の「花街」の記憶を辿る旅はこちらから! 【鹿児島】「「墓地」と「花街」の奇妙な関係 不吉な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発」 【東京】「「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶」 【鳥取】「“駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷」
加藤 政洋(立命館大学教授)