明治維新で「殿様御殿」は”不夜城”に様変わり! 富山藩主別邸《千歳御殿》の辿った運命とは
旧藩主の下屋敷は遊廓再編の受け皿に
維新後の混乱のさなか、近世的な都市空間がほころびをみせる。鳥取城下の《衆楽園》と同じく主を失ったこの下屋敷も、おもいもよらぬ空間用途の受け皿となる。 幕末以来、「紅烟翠柳の巷」、すなわち遊廓は市街地周縁の各町(稲荷町、北新町、辰巳町など)に「散在」していたことから「取締上不便」となり、明治4(1871)年、「芸娼妓貸座敷ヲ一廓ニ聚合」させようとする議論がおこる。各町の貸座敷に対して出された明治5年12月を期限とする移転命令では、驚くべきことに、「千歳御殿」の跡地が移転先として指定された。都市周縁に散在していた貸座敷を整理統合するべく、旧藩主の下屋敷をあてがった結果、旧城郭のあしもとに新遊廓が登場したのである。 御殿の庭園、あるいは「百種の梅樹」が植えられていたという寿緑天満宮の社地に、桜も植樹されていたのだろうか。遊廓として再開発されると同時に《桜木町》と命名され、以後、遊廓の代名詞となる。
大火、そして市外への移転
《桜木町》は「店頭漸くに増加し高閣楼台年々に築営せられ頗る繁盛を極」めたものの(浅地倫編『富山案内記』)、市街地の大火をきっかけとして、この街は大きな転機をむかえる。明治32(1899)年8月12日未明、一軒の石油商から出た火はおりからの烈風にあおられてまたたく間にひろがり、市街地とその周辺で約5000戸が焼失する大火となった。《桜木町》とて例外でなく、100を超える貸座敷が灰燼に帰す。 この火災に対する市議会の対応はすばやかった。救恤金が下賜された同月15日、市議会ならびに市参事会は9項目にわたる決議をする。その主眼は、「市区改正ヲ為ス事」、つまり街路の整備を中心にすえた都市計画を立案し復興事業にあたることにあったのだが、付帯事項として「遊廓桜木町ヲ市外ヘ移転セシムル事」をも決定したのだ。 「市区改正」を断行せよという決議は、時宜にかなった当然の判断であろう。その大事業と併記されるのであるから、市議会と市参事会は《桜木町》の移転を相当に重要視していたものとみてよい。決議の迅速さからすれば、移転問題は長年の懸案だったのかもしれない。 結果的に、「市の中央に貸座敷を置くは風俗取締に害ありとの議」は受け入れられ(『富山案内記』)、《桜木町》の貸座敷免許地指定は取り消された。同年中には代替地として神通川対岸の《愛宕》が指定され、明治33(1900)年出版の『富山案内記』には、はやくも移転先の「愛宕免許地」に成立した遊廓が紹介されている。 「婦負郡愛宕村〔現・富山市〕にあり神通川を隔て桜木町と相対す昨三十二年桜木町の代地として指定せられたる免許地なり地稍々偏在すと雖も境域広濶にして風光頗る絶佳楼に登り杯を引き妓を呼んて低唱するあらんか万斛俗中脱塵の想あり他日縉紳富豪の驕奢を戦はし粋客通さの豪遊を争ふは蓋し此地なるへし」 図を参照すると、旧遊廓《桜木町》のちょうど対岸に《愛宕新地》が位置している。また市街地の東には、「東新地」という名の街区もみられる。この一連の出来事にさきがけて、明治28(1895)年4月におこった北新町の火災をきっかけとして、「是レマデ北新町ニアリシ遊廓ヲ清水町字水引割竹花割ヘ移転スベキ」ことが決定されていた(『富山市史』)。明治初年に整理されるはずだった貸座敷が北新町に残り、一廓をなしていたらしい。これによって、市街地東部の縁辺に新遊廓《東新地》が建設されたのである。 《愛宕新地》に目をもどすと、神通川の中島のようなこの土地には、北陸本線の「富山駅」も立地していた。いまだ市街地の形成は途上にあるとはいえ、《愛宕新地》が駅前の遊廓であることに変わりはない。早晩、駅前も発展し、遊廓が問題視されることは自明であった。結論からいえば、《桜木町》の分身たる《愛宕新地》は再び移転を命ぜられ、《東新地》に吸収合併されるのである。