【追悼’23】門田博光さん「ホームランなんぞ打たんでええ」と言われても…フルスイングし続けた人生
南海、オリックスなど活躍し、王貞治氏、野村克也氏に続く、史上3位となる通算567本塁打を放った門田博光さん(享年74)が亡くなっていることがわかったのは1月24日のことだった。この前日に通院治療に現れなかったため、病院が警察に通報し、自宅で倒れていた門田さんを発見したのだった。 【肩を落として…】南海ホークス「さよならパーティ」会場で寂しそうだった門田さん 門田さんは1948年生まれ。’69年に南海ホークスからドラフトで2位指名を受け、プロ入りした。プロ入り2年目にして3番でレギュラーをつかみ、打率3割超えでベストナインにも選ばれた。しかし、当時ホークスで選手権監督をしていた野村克也氏とはたびたび衝突したようだ。本誌が’18年7月に行ったインタビューでは次のように語っていた。 《オッサンには、よう小言を言われましたワ。『オマエは大振りし過ぎる』『ホームランなんて打たんでエエ。四球でもヒットでも、ワシの前に塁に出ること。それがオマエの仕事や』とね。 入団当初、オレが3番を打ってあの人が4番を打っとった。オレがホームラン打ったら『打点が稼げなくなるから打つな』ということです。どこまでも自分が一番。そんなけったいな選手が、あの頃のパ・リーグ、特に関西の球団にはゴロゴロおりました》 門田さんの本領はフルスイングでの豪快なホームランだった。野村氏からは「大振りは止めろ」と注意され続けたが、門田さんは無視して自分のスタイルを貫いた。’77年に野村氏が監督を解任された後は4番打者として長距離打者の道を歩み続ける。だが、’79年の春のキャンプでの練習中にアキレス腱を断裂、1シーズンを棒に振ってしまう。当時は現役復帰も困難だと言われた。 《翌年の開幕戦は日生球場での近鉄戦でした。当時の広瀬叔功(よしのり)監督からは『カドは(スタメンから)外すぞ』と言われたんやけど、オレは頭を下げてお願いした。『使ってください。この試合をオレにください』と。もしこの試合でダメやったら代打でも、二軍に落とされてもかまわへんという覚悟でした。 6番指名打者で出場し、相手はエースの鈴木啓示。第1打席で3ボールになると、次は直球が来るとヤマをはった。来たのは案の定、真ん中への速球やった。フルスイングした打球は、逆転のホームラン……。嬉しかったね。試合後は最寄りの駅から自宅まで、涙をボロボロ流し大声で『これが~オトコの美学~』なんてメチャクチャな歌をうたいながら帰ったのを覚えています。『あー、これでオレも復活できたんや』と感無量やったんです》 見事な復活をとげた門田さんはその後も「ホークスの4番」として活躍を続ける。’88年には40歳にして初めて全試合に出場。本塁打王、打点王の二冠を獲得し、さらにプロ野球史上最年長でのMVPに選出された。40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。 残念なことに門田さんがその大記録を打ち立てた年に、南海ホークスは買収されて福岡ダイエーホークスに。門田さんはオリックスへ移籍することとなるが、’92年にバットを置くまで40代とは思えない活躍を続けたのだった。 引退後は野球解説者をつとめた時期もあったが、糖尿病をはじめとする病魔との闘いが長く続いたようだ。’22年の『SPA!』のインタビューでは、現役時代は節制していたが引退してから友人がおらず、酒量も相当に増えていたことを明かしていた。 《勝負の世界はひとりでいいと思い、一切人を寄せつけなかった。引退したら横の繫がりがないから大変やね。話し相手もいないし……》 常にそのバッティングスタイルのように、フルスイングで闘い続けた門田さん。冥福を祈りたい。
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