「サイレント・イヴ」の辛島美登里 大学時代までは「就職して、見通しの明るい人と結婚するのが一番いいと思っていた」のに…
「ダメだったらお見合いでも何でもする」
そんな思いを巡らせている頃に、世話になったヤマハの関係者から聞いたのが、東京にある「ヤマハ音楽院」の存在。自身は中学でピアノをやめていたこともあり、「ピアノの基本的なことを何も知らなかった」という。だが、ピアノ練習室を自由に使えること、2年間は籍を置けることなどを知り、「2年間頑張ってダメだったら、鹿児島に帰ってお見合いでも何でもするから」と両親を説得した。 両親も「美登里がそこまで言うなら、頑張りなさい」と快く送り出してくれて、寮費が月額300円と破格に安かった奈良の頃と比べて、倍近い額の仕送りを続けてくれた。 ヤマハ音楽院の寮には同僚の女性が4~5人おり、「みんな仲良し」で寂しさとは無縁の東京生活。音楽院の先生から「事務所を作りたいので、曲を書ける子を探している」と声を掛けられ、好きだった曲作りを続けていた。だが、曲を書いてあらゆるオーディションに出してもなかなか受からなかったという。 「もう、書いては落ち、書いては落ち、という状態で……。これで自分はやっていけるのか、食べていけるのかという思いで悶々とした日々が続いていたんです」 「あの人のアルバムに入れる曲を探しているよ」と先生から聞いては、曲を書いて渡し、それを出してもらっては落ちる……という日々が続き、やがて、自身で区切った2年が過ぎた。それでも続けていたが、応援し続けてくれていた父から「1度、こっちに帰ってきて、今後のことを話そうか」といわれ、鹿児島に帰った。東京でもがき始めてから2年半の月日が流れていた。
「辛島さんもCD出してみる?」と
鹿児島の実家に帰ったその日、夕ご飯を食べながら今後の話をしようという直前、東京から電話がかかってきた――「永井真理子さんに提供していた『瞳・元気』が受かったよ」。永井は1987年7月にシングル「Oh,ムーンライト」でデビューしたばかり。「瞳・元気」はセカンドシングルとして同年11月にリリースされ、翌年1月のアルバム「元気予報」にも収録された。 以後も、永井のサードアルバム「Tobikkiri」に「Fight!」など3曲を提供。同アルバムはオリコンチャートで最高位4位を獲得し、辛島の作曲家としての認知度も上がってきていた。並行してOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)の「魔境外伝レディウス」や「聖戦士ダンバイン」などのテーマソングを作り、自身で歌い、自身の名義で音源も発売されてはいた。 「その頃も『辛島さん、歌わなきゃ』とは言われていましたが、やはり性格的に人前に出て歌うのは苦手で。職人的に曲を作って、それを歌ってもらうのが好きだったんです。でも曲提供のときには、仮歌を自分で吹き込んでデモテープをお渡しするんです。(永井)真理子ちゃんのときもそうだったんですが、真理子ちゃんのプロデューサーだった金子文枝さんに『辛島さんもCD出してみる?』と言われて……」 当時は来生たかおらソングライターが自ら歌い、ヒットするケースも多くなっていた。「じゃあ私もCD出せば、曲の依頼が増えるかな?」という動機で、CDを出すことに。1989年6月のシングル「時間旅行」、そして7月のアルバム「Gently」で正式にデビューした。 「当時は作家として曲を提供していて、デモテープを聴いた人から『辛島さん、これ歌ってみたら?』と言われて歌う機会も増えていたんです。でも、正式デビューのときには、プロフィール写真も時間をかけて撮ってもらい、自分でプロモーション活動もして。それ以前は、歌う立場のプロ意識というよりスタッフ側の感覚だったので、私なりに線引きをしているんです」 28歳という遅咲きのデビューにはこんな理由があったのだ。もちろん、曲提供も続けており、辛島の公式デビュー直前に発売された永井の4枚目のアルバム「Miracle Girl」には、後に自身でセルフカバーした「Keep On “Keeping On”」など2曲を提供するなど、作家としても着々と階段を上り続けていた。 *** シンガーソングライターの道を本格的に歩み始めた辛島。第2回【主題歌担当のドラマ「クリスマス・イヴ」は「テレビの前で正座して観ていた」 辛島美登里が語った大ヒットの裏側】では、自身最大のヒット曲となった「サイレント・イヴ」などをはじめ、近年の恒例のライブなどについて語っている。
デイリー新潮編集部
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