【プレイバック’04】「首切り映像」の衝撃…イラク日本人青年殺害で被害者遺族を追い詰めたもの
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は20年前の’04年11月19日号掲載の『憤激ドキュメント・小泉〝冷血宰相〟が日本人を殺す! ネット上で公開されたイラク「Aさん首切り映像」の衝撃‼』を紹介する。 【戦慄】すごい…Aさんの首を切断して惨殺した犯行グループ指導者の〝凶悪素顔〟 ◆生きながらにして首を切られた ‘04年10月27日、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、当時24歳の日本人青年Aさんを人質にしたと犯行声明を出し、「48時間以内に日本政府が自衛隊をイラクから撤退させなければ殺害する」とした。日本政府はこの要求を拒否。日本時間10月31日未明にAさんは遺体となって発見された。当時の政府の対応をめぐる記事だ。(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。 《衝撃的映像がネットに流出したのは、 11月2日の午後9時過ぎのことだった。 後ろ手に縛られ、俯いて座るAさんの背後で、「日本政府が自衛隊を撤退させないので、人質を殺害する」などと声明文を読み上げる3人の黒ずくめの男。その直後、1人がAさんを突き飛ばすようにして押し倒し、横にいた別の男は大型のナイフを抜いた。 あっという間のことだった。男たちには、一切の容赦も、躊躇もなかった。横倒しにされ、乱れた髪を鷲掴みにされたAさんは、その刹那、「あうっ」と短く悲鳴をあげたようにも聞こえた。しかし、巨大なナイフは一瞬にしてAさんのノドへ突き立てられそして……。》 Aさんの遺体が発見されたのは、この映像が流れる前の10月31日未明(日本時間)だった。当時の状況から、Aさんはその数時間前に殺害されたと推測された。日本時間30日のその夜、小泉首相(当時)は何をしていたのか。 《ちょうどそのころ、救出の最高責任者たるべき小泉純一郎首相(当時62)は、あろうことか「結婚式」にゲストとして出席し、政財界の“おともだち”とともに、祝杯をあげていた。(中略) 「披露宴の最中には、首相が森喜朗前首相に『(組閣でモメて以来)怖くてお会いできなかった』などと語りかけ、森氏が『本当は怖くもなんともないクセに(笑)』などといった、『ほのぼのムード』が漂っていたそうです」(自民党幹部)》 実は小泉政権はこの直前にも失態を演じていた。前日30日未明に流れた「バグダッド北方で日本人の遺体発見」という情報に対し、午前4時に会見を開いて「A氏の体の特徴に一致する部分がある」と発表したのだが、その日の午後にはこの遺体がAさんのものとは似ても似つかないアラブ系男性のものだったことが明らかになった。混乱の原因は、米軍以外に現地に情報網を持たない政府と外務省の無為無策だった。 ◆子を惨殺された被害者家族が謝罪する「異常」 自国民の命が脅かされていたときに結婚式に出席したことをメディアから問いただされた小泉首相は「じゃあ、首相公邸で何もせずずっと籠っていればよかったのか」と〝逆ギレ〟したという。思えば事件発生当初から、小泉首相はAさんに対してあまりに冷淡だった。 《拉致発覚の直後、躊躇もなく、即座に「自衛隊撤退はしない」と断言した。その後、政府がやったのはAさんの「人定作業」。政府はまずAさんを、「左翼、市民活動家ではないか」調査したという。救出作業は米軍頼みで何もしない一方、誘拐された自国民が「テロリストと繋がっているのでは」と疑っていたのだ。》 また、政府はAさん殺害の世論への影響を怖れて、11月1日に起きたイラク・サマワの自衛隊駐屯地への砲撃事件を19時間も「隠蔽」していた。さらに「ネット監視」をしていた形跡もあった。 《人質への同情、政府批判が高まると、即座に反論を掲示板などに書き込み、批判を封印する。「誘拐された人間の自業自得」という世論誘導を行うためだ。その影響か、福岡県にあるAさんの実家には嫌がらせが相次いだ。その「異常さ」は、Aさんの遺体発見後の両親のコメントに表れている。 「支えていただいた多くの方々には、大変な心痛をおかけし、お詫び申し上げたい。感謝の気持ちでいっぱいです」 最愛のわが子を惨殺された両親が、なぜお詫びをしなければならないのか。誰に感謝しなければならないというのか。》 Aさんの行動は無謀だったのかもしれない。しかし、遺族が悲嘆にくれる本心をさらけ出すこともできない異常な空気が、このときの日本には漂っていたのだ。 ◆Aさん家族を追い詰めた「自己責任論」 この「誘拐された人間の自業自得」という「自己責任論」が盛んに口にされるようになったのは、記事にもあるように’04年4月にイラクで起きた日本人3名の人質事件がきっかけだった。 このときも犯人の武装集団は自衛隊の撤退を要求したが、小泉首相が「テロには屈しない」と拒否。被害者家族や支援者らの自衛隊撤退要求の声に対して、「自己責任」という言葉がよく使われるようになったのだった。「自己責任」の御旗のもとに3人とその家族は日本中からバッシングを浴びることとなった。 ただ、このときの「自己責任論」にはまだ賛否があった。それは誘拐された人たちがジャーナリストやボランティアなど「目的」をもって危険な地域に入っていったことと関係していたのかもしれない。 だが、記事からもうかがえるように、バックパッカーであるAさんの事件において「自己責任論」が世論の多くを占めていたように感じられた。 フリーターとして働いていたAさんはニュージーランドでのワーキングホリデーを’04年1月に終えた後、イスラエルやヨルダンなどを旅行していたという。映画監督の四ノ宮浩氏はヨルダン・アンマンでAさんに出会い、「イラクへ行く」という彼を一度は引き留めたという。そしてAさんについて当時毎日新聞の取材に答えてつぎのように語っていた。 「彼はただ観光旅行に行ったように言われているが、全く違う。『どうしたら世界は平和になるんでしょうか』などと語る純粋な若者だった。戦争というものを肌で感じて、そこから平和について考えようとしたのだと思う。行動は無謀だったが、真実を知りたいという姿勢を僕は評価したい」 コロナ禍や貧困問題など「自己責任」というワードが使われる機会は20年前よりもさらに増えたのではないだろうか。それは、SNSという、当時は存在しなかった他者を攻撃するツールを多くの人が手にするようになったことだけが理由ではなさそうだ。
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