”Jリーグ最強の企画屋”に聞く「地域とスポーツのしあわせな関係」(上)
地域の”さわやかなストーカー”になる
大枝 日本に帰ってからは。 天野 やっぱりJリーグのクラブで働きたいと思って、最初はフリューゲルスでバイトしてました。96年の10月からバイトを始めて、3月からそのまま就職する予定だったんですが、僕が思い描いているプロスポーツクラブのイメージとちょっと違うなと、思うところがあったので、ほかのクラブもあたっていいですかと、就職活動をしました。レッズ、千葉、ヴェルディ、ベガルタ、大分、マリノスにも行きましたが、全部断られて、その時にフロンターレがプロ化するというのがサッカーマガジンに出ていて、連絡して会いに行ったんです。 大枝 それまで川崎には縁はなかったんですか。 天野 まったくないです。僕はフロンターレに拾われたっていう気持ちがすごく強いです。中村憲剛もそうだし、小林悠もそうだし、チョン・テセもそうだし、フロンターレってこう、拾うチームなんですね。 当時はみんな富士通の出向の人たちばかりで、僕は社員1号だったので、お前は自由にやれ、任せたと(笑)。すごく恵まれてたんです。 大枝 アメリカでやりたいと思ってたことが自由にできたということですか。 天野 できましたね。毎日0時まで働いてましたが、全然苦じゃなかったです。 大枝 武蔵小杉のタワープレイスにいらした頃は、水色のバイクが停まってましたね。 天野 僕のバイクです。その前は自転車だったんですよ。商店街の人にもらって、めちゃめちゃうれしくて水色に塗ったんですけど、警察に捕まって、盗難車だって言われてびっくりして。くれた人も知らなかったんですけど。すみません水色になっちゃいましたって言いながら、武蔵中原の駅前で持ち主に返しました(笑)。 大枝 最初は「フロンターレです」って行くと「え、何それ」みたいなとこから始まるわけですか。 天野 何それだったらまだ良いですけど、灰皿とか飛んできましたからね。「帰れ」って。最初はすごかったですね。 大枝 川崎は野球チームもいなくなったり、ヴェルディもグッズショップがなぜか最初は青山にあったりで、プロスポーツがなかなか根付かないと言われていましたね。 天野 最初は信じられないくらいの拒否反応だから、しつこく行くきました。20代で若かったし。何もやることがないと困っちゃうので、「フロンターレ新聞」を作り始めました。最初は手製で300枚刷って、配ったらとりあえず受け取ってくれて。 大枝 実際観客が増えていくのには時間がかかりましたよね。 天野 商店街を1つ、2つと少しずつ、回れば回るほど顔なじみになって、ちょっとずつ意識してくれ始めるんですよ。まだ新聞を探さないと試合結果が見れないような時代でしたけど、そのうち行くと、向こうがもう結果を知ってたり。僕がすごく大事だと思ってるのは、一気になんかうまくいくわけないので、しつこくしつこく「さわやかなストーカー」のように出向いていくんです。そうすると、商店街の会合なんかに呼んでくれるようになって、お祭りに出させてもらったりして。まだ勢いのある商店街だと、30人に1人や2人は熱い人がいるんですね。若者ががんばってることに対して賛同してくれる人が。 商店街の人はお店があるので試合には来られないですけど、大事なのは、地元と一緒に、地元に愛されるクラブっていうのを作っていくこと。強いからお客さんが入ってるんだと、転んじゃうから。98年ぐらいはお客さんが入らない時代でしたが、底を作っておくことが、この先のフロンターレを支えることになると、アメリカでの経験から思っていました。