ペリーの後に来たロシアの黒船 苦難連続プチャーチンが結んだ日魯通好条約
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。
初めて法的に日ロ間の国境を決めたのが「日魯通好条約」
日ロ間の国境が初めて法的に画定したのは今から約160年前の1855(安政元)年2月、下田(現静岡県下田市)で江戸幕府とロシアによって交わした「日魯通好条約(日露和親条約)」でした。この条約で国境を、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間と定め、樺太については従来どおり両国民の混住の地と決めました。
幕府が次々と和親条約を結ぶ中、日ロも締結
この条約を交わした1855年前後は日本にとってどんな時期だったのでしょうか。2年前の1853(嘉永6)年、日本に米国のペリーが軍艦4隻で浦賀(現神奈川県横須賀市)に現れ、長く鎖国が続いた日本に開港を迫りました。ペリー艦隊が日本に派遣されることを知ったロシアからは、ペリー来航の翌月、使節プチャーチンによる一行が長崎にやってきます。しかし、このときロシアはクリミア戦争に突入し、英国・フランスと敵対関係になったため、いったん退去します。
翌1854(安政元)年、ペリーが浦賀に再来航すると、幕府は下田・函館を開港するとした日米和親条約を結び、英国とも日英和親条約を締結します。続けて、下田に再来航したロシアのプチャーチンは、安政の東海地震による津波で、乗ってきた軍艦を失い、一旦交渉中断を余儀なくされるものの、1855年2月、両国は日ロ間の国境や下田・函館・長崎の開港などを認めた日魯通好条約に調印しました。 ちなみにこの条約締結日である2月7日を、1981(昭和56)年から「北方領土の日」と定めています。