【力道山生誕百年目の真実】春風亭一之輔×力道山の未亡人・田中敬子さん異色対談「リキさんの傷口は小さかった」次々と飛び出す貴重証言の数々
一之輔:ところで敬子さんは、お酒は結構いけるクチなんですか? 敬子:好きなんですよ。実は主人より強かったかも(苦笑)。 一之輔:北沢幹之さんは力道山門下生の生き字引ですが、敬子さんと初めてお目にかかったとき、どう思いましたか? 北沢:年齢はそう違わないんですが、何せ力道山先生の奥様ですから、私どもが気安く話せる方ではなかったです。 一之輔:その上、力道山は相当厳しい方だったのではないですか? 北沢:厳しいなんてもんじゃないです。顔を合わせたらいきなりゲンコツ。でも、(アントニオ)猪木さんもそうして強くなりました。 一之輔:力道山が刺された情報はどこで知ったんですか? 北沢:赤坂の合宿所で聞きました。若手数人で「先生の仇を討とう」と刀を持って復讐に行こうとしたんですが、未遂に終わりましてね。 敬子:その話、初めて聞きました。 北沢:それから1週間で亡くなられるとは……。先生のような方は二度と出て来ないでしょう。
「リキさんの傷口は小さかった」
一之輔:山本信太郎さんも、生前の力道山と深く関わっておられますね。 山本:私が社長を務めておりましたニューラテンクォーターの常連のお客様でしたね。 敬子:私も主人と一緒にうかがいました。本物のショーを観られて感動したものです。 一之輔:それなのに、1963年12月8日の事件の現場になってしまった。 山本:私は目の前で“その瞬間”を目撃しているんです。刺した村田(勝志)がダダーッと店から逃げ出しましてね。ただ、このときリキさんに傷跡を見せられたけど、非常に小さかった。血もほとんど出なかったので、警察もすぐ引き上げたんです。まさか、1週間後に亡くなるなんて。
一之輔:そこから、敬子さんとは……。 山本:事件現場になったことが申し訳なくて、連絡出来なくなったんですよ。その後の敬子さんのご苦労は人伝に聞いていたんですが、何のお力にもなれず……(涙)。 敬子:いや、私は主人が酔っ払って迷惑をかけたのかなって思っていたので、むしろ山本さんに「申し訳なかった」って思ったくらいで。 一之輔:交流が復活したのは、何がきっかけだったんですか? 山本:20年くらい前に上梓された敬子さんの自伝を読んで、今おっしゃったことが書かれていたんです。安堵しましたね。 敬子:それから、またお会いするようになって、今はお食事に行ったり、お酒も……(笑)。 一之輔:舟橋慶一さんは、かつてテレビ朝日のプロレス中継の実況アナウンサーですね。1975年12月11日の興行戦争、日本武道館「力道山十三回忌追善大試合」と、蔵前国技館「アントニオ猪木対ビル・ロビンソン」のときは当然、国技館にいらしたわけですよね。 舟橋:そうです。ただ、あのときは、猪木さんも複雑な心境だったと思うんです。何せ力道山を心底尊敬していましたから。追悼の気持ちを人一倍持っていたんです。 敬子:このときは何もわからないまま「この日に武道館で追善大会をやる」ってことで、私が主催者として祭り上げられたんです。
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