【ここまで変わった!日本中世史】「源平合戦」は存在しなかった!? 国を揺るがした戦乱の真相
栄華を極めた平家に対して、源頼朝が挙兵した後、源氏と平氏が激しく衝突したことを「源平合戦」と習った人が多いだろう。しかし、実際は複雑な対立構造で繰り広げられた大きな内乱であり、それは「源氏と平氏の対立」とは決して言い切れない側面もあることをご存知だろうか。 従来説:独裁的権力を有した平家に対して源氏が蜂起したことから「源平合戦」という 新説:源氏と平家だけでなく、寺社や豪族も参加していたことから「治承・寿永の内乱」という ■源氏・平氏で割り切れない対立構図が存在 「源平合戦」という呼称は、昭和生まれの人によっては馴染み深いものであろうが、今では当時の元号を冠して「治承・寿永の内乱」と呼ばれるようになってきている。源平合戦という呼称は、平清盛・宗盛率いる平家政権と、源頼朝ら源氏一門との戦いであると認識されていたことから生じたものであろう。源平の争乱を描いた軍記物語『平家物語』や『源平盛衰記』もそうした認識の形成に一役買ったと思われる。 しかし、当時の内乱を見ていくと単純に平家VS源氏と図式化できるものではない。興福寺・園城寺といった宗教勢力や諸国の在地勢力も参戦しているのだ。つまり、源平とは無縁の勢力も含まれていたのである。 また源氏だからといって、源氏側についたという例ばかりでもない。例えば、平治の乱(平治元年)において、源頼政は源義朝と別行動をとっている(平家側についた)。保元の乱(保元元年)でも、平清盛と叔父・平忠正、源義朝と父・源為義は対立している。 また、平家を都落ちさせて征東大将軍に任じられた源(木曾) 義仲も、叔父の源行家と対立を深め、刃を交えている。何より、同じ源氏である源頼朝と義仲も対立し、最終的には義仲が滅亡するのだ。頼朝は、平家と和睦しても良いとの意向を示していた。頼朝は平家の滅亡よりも、同族の中での覇権を優先していたふしがある。 そしてまた、頼朝は源義経や行家と確執を深め、彼らを追い落とそうとした。頼朝は、治承4年に平家方に対し挙兵するが、挙兵に加わった者には、平氏の子孫を称する者も多数いた。頼朝に加勢した北条時政の北条氏も「平直方流」を称している。そうした点を無視して「源平合戦」とすることは実態を見誤ることになるだろう。 監修・文/濱田浩一郎 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部