永遠のスター「オードリー・ヘプバーン」いくつ知っている?ファンに語り継がれる「意外な真実」14
映画スターの名声が保たれるのは、たいてい15~20年と言われています。キャリアは次第に下降線をたどり始め、やがて世間から忘れ去られていくことも――しかしなかには、私たちの記憶にいつまでも残る人がいます。時代を超える出演作のおかげかもしれません。語り継がれる魅力のためかもしれません。ですが、何より大きな理由は、その記憶が失われることをファンたちが拒み続けるからです。 オードリー・ヘプバーンは、まさにそうした映画スターのひとり。富と名声よりも結婚と子育てを優先し、スポットライトを浴びることより、貧困にあえぐ国々の子どもたちや、HIVをはじめとする感染症に苦しむ子どもたちを救おうとすることに、晩年を費やしました。1993年に亡くなった後も、その輝きが失われることはなく、出演した映画には、彼女の気品と茶目っ気のある無邪気さが表れており、映像でも写真でも、常に私たちを魅了し続けます。生前のオードリーについて、彼女を巡るいくつかの事実とともに振り返ります。
記憶に残るオードリーの真実14
あまり自分のことを話したがらなかったというオードリーですが、とても多くのことが「言い伝えられて」います。世界中のファンたちの記憶に残っているのは、主に次のようなことです。 ●1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで誕生。母は男爵位を持つオランダ人、父はイギリスとアイルランドの血を引くビジネスマン。1993年1月20日、自ら「ラ・ペジブル(La Paisible)」と名づけたスイスのトロシュナにある自宅で、大腸がんのため死去。 ●第2次世界大戦中、オランダで苦しい生活を送った(栄養失調で貧血だったことが、ひどくやせたままだった原因とみられている)。 ●バレリーナを目指していたが、かなわない夢となり絶望を味わった。 写真:バレエのレッスン中のオードリー、1950年撮影
●1950年代はじめ、フランスの作家シドニー=ガブリエル・コレットが、モナコのモンテカルロにあるオテル・ド・パリで『オードリー・ヘプバーンのモンテカルロへ行こう』の撮影中だった彼女を見かけ、自身の短編小説が原作の舞台『ジジ』の主役に抜てきした。 ●オーディションを受け、『ローマの休日』の主役、グレゴリー・ペックの相手役に選ばれる。彼のおかげで、ほぼ無名ながら「主役のひとり」として扱われた。 写真:映画『ローマの休日』で演じたアン王女、1953年撮影