【プレイバック’04】アテネにかける熱い思い…長嶋茂雄 緊急入院から4ヵ月〝奇跡のリハビリ姿〟
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は20年前の’04年7月23日号掲載の「長嶋茂雄五輪代表監督『アテネへ』奇跡のリハビリ姿」をお届けする。 「ミスターが立った!」すごい…長嶋茂雄日本代表監督〝奇跡のリハビリ姿〟 ’04年3月、アテネ五輪野球日本代表のドリームチームを率いる「ミスター」こと長嶋茂雄(当時68)監督が脳梗塞のため緊急入院。その後「奇跡的回復」をしていると伝えられたものの、その動静は一切不明だった。アテネまで1ヵ月と迫った7月、長嶋監督の容体は国民的な関心事となっていた──(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。 ◆腕を屈伸させたり、足を上げて組んだり ミスターが脳梗塞で倒れて4ヵ月以上が経った。その間、順調に回復し5月中旬には退院することができたという。しかし、その後の病状は、長男・一茂氏や巨人軍広報を通じて「リハビリは順調」と伝えられるのみで、厚いベールに包まれていた。本誌はそんなミスターの〝奇跡のリハビリ姿〟をキャッチしたのだった。 《6月某日、都内の超高級分譲マンションの一室。ミスターはTシャツにトレーニングパンツ姿で椅子に座っていた。手元には杖が立て掛けてある。右手を肩から吊ってはいるが、左手で握り拳を作り、腕を屈伸させたり、足を上げて組んだりと、動きはかなり積極的だ。 「アテネにかける思いが長嶋さんのモチベーションを上げているのでしょう。入院当初こそ、自分の置かれた状況がわからない様子でしたが、今では積極的にリハビリに取り組んでいます。現在は、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士が訪問リハビリを行っています。また、ドクターをマネジメント役に、彼らとナース、ケースワーカーなどがカンファレンスを開き、治療とリハビリの方針を決める、徹底したチーム医療態勢をとっています。ご本人はこれまで病気らしい病気はしたことがなかったため、動きたくてうずうずしているようで、通常のリハビリ時間をオーバーして、体を動かすこともあるようです」(東京女子医大病院関係者)》 その言葉通り、ミスターは部屋で歩行訓練を行い、エアロバイクでは麻痺が残る右足をベルトでペダルに固定してゆっくりと漕ぐ。さらにマッサージを受けて固くなった関節をほぐすなど、懸命にリハビリに取り組んでいた。その姿からは復活への意欲が十分に伝わってきた。 リハビリに使用されていたのは前年に完成したばかりの億ション。ミスターが滞在していた部屋はバリアフリー仕様の3LDKでリビング・ダイニングが19.5畳ある2億円弱の物件だった。そんな恵まれた環境で亜希子夫人や一茂氏らファミリーに支えられた万全の環境でリハビリは行われていたのだった。そんな中で長嶋ジャパンの船出となる7月13日、14日のキューバとの壮行試合に、ミスターがベンチ入りし、選手を激励するプランも浮上していた。 《日本代表編成委員会の長船騏郎委員長は、「医師と相談して7月10日前後に結論を出したい」と明かした。一茂氏も、「腕を吊った状態でもおかしくないユニフォームを作ってもらうという話もしている」と、ミスターのベンチ入り実現に向けて、具体的なプランを検討中だ。ミスターをもっとも身近で見ている一茂氏の言葉だけに、長嶋監督がアテネで采配を揮うことは、決して不可能ではないように思える。が、リハビリを担当する医師団の1人は、現状でのアテネ行きの危険性を次のように指摘するのだ。 「長時間飛行機に乗るため、気圧の変化が血圧に影響し再発作が起きる可能性を秘めています。また、現地で医師団の完璧なバックアップ態勢が作れるかどうか疑問です。できれば、アテネには行かず、名誉監督として、東京に留まるという形が一番いいのではないでしょうか」》 しかし、長船委員長は「長嶋ジャパンでアテネ入り」にこだわり、ミスター以外の監督の起用をきっぱりと否定したのだ。ミスターがアテネで指揮をとることはもう揺るがないのか。本誌は日本代表メンバーが発表された直後の7月上旬、長船氏を直撃した。 《「実は数日前、長嶋監督と直接、電話で話をしたんだ。『(監督として)登録したからな。しっかりとリハビリして一緒にアテネに行こう』と激励したよ。彼は右腕に麻痺が残っているが、『1人で歩けるようになった。杖がいらなくなっている』と、 ちゃんと喋っていたよ。いまは、中国鍼の治療も受けているそうだ。亜希子さんをはじめ、一茂ら家族の意思、それと医師と相談しながら、最終判断は私に任すと言ってくれている。だから、当初の予定どおり(長嶋監督で)いくよ」》 懸命にリハビリに打ち込むミスターは、アテネで「メイク・ミラクル」を見せてくれるのだろうか? だが、結局ミスターの願いが叶うことはなかった。医師から渡航の許可が下りなかったのだ。8月2日に行われた会見で一茂氏は「アテネに行くリスクがどうしても取り除けなかった」と語った。代表チームの指揮は中畑清ヘッドコーチ(当時50)がとることとなった。 アテネ五輪の野球日本代表は、各球団から2人しか招集できないという制限つきではあったものの、初めてプロ選手だけで結成された「ドリームチーム」だった。予選リーグではオリンピックで初めてキューバを破るなど6勝1敗という輝かしい成績でトップ通過を果たす。しかし、準決勝でオーストラリアに敗れて銅メダルという結果となった。 ミスターが倒れて以来、初めてファンの前に姿を現したのは‘05年7月3日、巨人VS広島戦が行われた東京ドームだった。1年4ヵ月ぶりに客席で見せた変わらぬ彼の笑顔に、スタンドからは拍手と大歓声が湧いたのだった。 ミスターは今年5月に東京ドームで行われた巨人軍創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」にもサプライズ登場を果たしてファンを喜ばせている。
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