白岩優奈「スケートの世界に帰ってきてよかった」 けがや休養を経て、ラストの全日本へ
ジュニア1年目でユースオリンピック出場
ジュニアに上がると、「海外試合に出たい」という思いから練習に一層励むようになった。練習すればするほど上手に、またいつ曲をかけてもノーミスで通せるところまで調子が上がっていた。 「自分ができることを精いっぱいやりきると、自然と結果はついてくる」。そう信じられることでさらに練習に身が入った。その勢いのままジュニア1年目で、坂本花織(シスメックス)とともにユースオリンピックに出場。白岩はショートプログラム(SP)で首位発進し、総合4位に入った。また世界ジュニア代表の座も手にできた。 ジュニアで2年間戦った後、翌シーズンからは2018年の平昌オリンピックを見据えてシニアに移行した。また、勉強とスポーツの両立に力を入れている京都両洋高校を進学先に選んだ。 しかし、シニアに上がった直後に腰を疲労骨折。常に腰が痛い状態で練習していた。思うように練習ができない日々が続き、結果もついてこなくなったこともあいまって、メンタルのコントロールも難しくなった。思い描いていたような競技生活を送れず、初めて大きな壁にぶつかった。 つらいシニアデビューとなったが、翌シーズンはシニアの大会に出場しつつも、ISU(国際スケート連盟)の世界ランキングのポイント取得のために世界ジュニアに出場し、翌シーズンのグランプリシリーズ出場に望みをつなげた。
全日本直前にコーチ変更、そして1年間の休養
大学は、練習環境を維持するために関西大学に進学した。学部はフィギュアスケートの先輩が多く所属していた文学部に決めた。 振り返れば、進学後はかなり苦しい時期だった。北京オリンピックの2021~22年シーズンも変わらず大学のリンクで練習をしていたが、途中から濱田コーチが拠点を京都に移すことになり、白岩は自主練習をする日が増えた。 悩んだ末、全日本選手権前ではあったが大学のリンクで指導をしている本田武史コーチの下へ移籍。スケートの環境を整えるための決断だった。しかしすでに悲鳴をあげていた腰痛が悪化し、全日本では満足の行く結果を残すことができなかった。 その頃は心身ともに疲弊(ひへい)していた。スケートがしたいと思えるようなエネルギーを蓄えるために、翌シーズンは試合には一切出ないと決め、休養した。本田コーチの後押しもあり、初めて「スケートがない1年」を過ごすことになった。