ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (20) 外山脩
そこに馬で見回りに来るフィスカールは、ピストルを腰に鞭を手にしていた。労務者を威嚇する道具であった。 その三。フィスカールや彼らを管理する支配人たちと移民の意志疎通が円滑にいかなかった。 その疎通を図るため通訳がファゼンダ六カ所に一人ずつ配置されていたのだが、南樹を除く五人は実は日本でスペイン語しか学んでいなかったのである。 水野龍は、ポルトガル語を学んだ通訳を確保できなかったため、それに似たスペイン語の履修者で間に合わせようとしたのだ。そういう性格であった。 南樹も、ブラジル生活二年ほどでしかなく、ポ語の会話能力は未熟であった。 その四。水野が、移民の不信を買う不祥事を惹き起していた。神戸出港時に預かった彼らの携行金の返還を滞らせていたのである。これは次の様ないきさつによる。 皇国殖民は、笠戸丸が神戸出航直前になって、外務省から移民法に基づく保証金十万円の積立てを督促される━━という失態を演じた。社長の水野が、その保証金のことを知らなかったのだ。水野は、万事こういう調子だった。(右の外務省については内務省と記す資料もある) 慌てて、船の出航日を遅らせ、必死の金策をした。が、笠戸丸は傭船であり、出港を遅らせると滞船料がかかった。さらに神戸に集まった移民たちの宿賃が必要であった。一日計九〇〇円、それが毎日膨れ上っていく。 追い詰められた水野は保証金を値切り、外務省(あるいは内務省)もそれを容れたため八万円を差し出した。 この時、移民の携行金を「盗難や紛失を防ぐ」という名目で皇国殖民へ預けさせ、保証金の一部に充当した。これには、警戒して応じない者もいたが、応じた者もいた。 なお資料類によれば、 「八万円の内の五万円は、皇国殖民の出資者である滋野男爵家が捻り出し、残る三万円は移民から集めた携行金を充てた……」 という。 ともあれ、笠戸丸は出港した。預かった金は、サンパウロに着いた時に返す」と、水野は約束していた。その資金繰りのため、船が航海中、東京の皇国殖民の留守居役たちが走り回った。が、これが難航していた。しかし船旅を終えた預託者たちは、サンパウロに着いてしまった。彼らは当然、金を返すよう要求した。 ところが、水野は逃げ回っていて会えない。そこで沖縄県人を代表して城間真次郎という男が、移民収容所で水野を見つけ腕を掴んだ。が、跳ね飛ばされてしまった。水野は若い頃巡査をしたことがあり、その種の心得があったのだろう。しかし誰にも理解し難い行動であった。 結局、返還はされぬまま、移民たちはファゼンダへ向かった。預託をしなかった者も含めて、皇国殖民と水野への不信感を強めていた。 この預託金の返還は、以後、少しずつされたが、六年後の一九一四年に業務を開始した在サンパウロ日本総領事館でも、続けていたという。皇国殖民がすでに倒産していたため、総領事館が代行したのである。 随分と年数がかかったものだ。しかも、この時点では、預託者の中には受け取れない者もいた。死亡、住所不明、その他の事情による。 その五。移民たちは体調を狂わせていた。 食事のせいである。食事は、ファゼンダ内で手に入る材料に頼ると、ブラジル食にならざるを得なかった。が、調理法はわからず、見様見真似でつくっても、その味や臭いは馴染みにくく、食は進まなかった。 当然、体調は狂ってくる。それは精神状態にも影響する。彼らは怯えにすら襲われていた。「自分たちも、あの南欧移民の様になるのではないか……」と。 その南欧移民を、彼らはサンパウロの移民収容所で見た。何処かのファゼンダから引き上げてきた……ということであったが、疲れ、気力も尽きた様子で、廊下に寝そべっていた。泥鼠のごとく手足も顔も汚れ、衣服は破れていた。