映画『WALK UP』──韓国を代表する名俳優クォン・ヘヒョが語るホン・サンス映画の中毒的魅力
韓国ドラマ、映画に欠かせない名バイプレイヤーでありながら、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの三大映画祭でも受賞を重ねるホン・サンス監督作品の常連としても知られる俳優クォン・へヒョ。9度目のタッグとなる映画『WALK UP』に主演する彼に、自然発生的なホン・サンスの映画作りの魅力を尋ねた。 【写真を見る】ホン・サンス映画の魅力を写真でチェックする
アパートのフロアを上がるごとに織りなされる、映画監督と女性たちとのストーリー
ベルリン国際映画祭で銀熊賞を5度受賞したホン・サンス監督の長編第28作目となる人間ドラマ『WALK UP』の舞台は、都会の一角にたたずむ地上4階・地下1階建ての小さなアパート。映画監督のビョンスは、インテリア関係の仕事を志望する娘ジョンスと共に、インテリアデザイナーの旧友ヘオクの所有するアパートを訪れる。アパートの階をひとつずつ上がるごとに、ビョンスを取り巻く人間模様は変化し、予測不能な4章の物語が紡ぎ出される。映画監督ビョンスに扮するのは、ドラマ『冬のソナタ』(02)のキム次長役で知られ、Netflixドラマ『寄生獣 ―ザ・グレイ―』(24-)などで活躍する俳優クォン・へヒョだ。 ■自分が何をしていたか記憶にないほど、集中する現場 ──ホン・サンス監督といえば、当日早朝に書いたその日に撮る分のみのシナリオを持って一時間前に現場に現れ、そのまま撮影するというスタイルで映画制作をされていますが、俳優としてその中毒性もありそうな撮影現場をどう楽しんでいますか? (中毒性という言葉に大きく頷きながら)、おっしゃる通りなのですが、まず、俳優というのは、基本的に何かを表現しなければいけないという強迫観念があるので、良い意味でも悪い意味でも常に役作りをしているんですね。ところが、ホン監督の場合、直前まで何も知らされず、演じる役についても職業くらいしかわからない(笑)。なので、不安というよりも、気持ちが軽くなるんです。 ──情報がないから、逆に心配することがないと。 そうなんです。また、俳優は決まった配役やシーンについても、事前に色々なことを準備をしなきゃと思っています。そうこうしているうちに、自覚していなくても今までやってきた方法や慣習に則って演技をしてしまったり、あるいは得意なテクニックをどう使うかと悩んでしまったりするんですね。ホン監督は、そういったことは古い考え方で、偽りだというふうに考えていらっしゃるようです。台本をもらうのは直前なのですが、ご覧いただいている映画には、アドリブはいっさいありません。だから、私たち俳優がとても大切にしなければいけないのは、一文字も間違えずに台本通りに演じることなんですね。完璧に台本の中身を理解し、誠意を込めてセリフを発し、相手の動きを見て、セリフに耳を傾けて、それに反応することが非常に大切になってくる。俳優たちがそう演じることで、真実の、本物のシーンが作れるとホン監督は信じているんですね。私にとっても、そういった作業はとても楽しいものです。 ──集中力がものすごく必要そうですね。 そうですね。「カット」と言われた瞬間、自分が何をしたのか記憶にないんですよ。そして、ホン監督の作品はカット割りがないので、例えば今回、地下でワインを飲んでいるシーンに関しては、17分以上のロングテイクでした。そういう状況では、集中力を最大限に高めて、内容を把握し、それを映画の中で伝えていくことにフォーカスしているので、こんなふうに演技をしなくちゃなんて考えたりする余裕はありません。でも、そうしているうちに、おのずと私が演じたビョンスというキャラクターができあがってくるんですね。同時に、クォン・へヒョがもともと持っていたものが、ビョンスの中に入っていくのだとも思います。 ■思ってもいない方向に進んでいく物語を楽しむ ──お酒を飲んだり、食べたりしているシーンも、実際に飲んで食べていると聞きますが、映画から離れて冷静に考えるとすごいことだなと。 気の向くままに乾杯したり、お酒を飲んだりしているように見えるかもしれませんが、全くそうではなくて。タイミングは、全てリハーサルで決めていくんですね。だからテイクを何度も重ねて、監督と話をして、リズム感を合わせる必要がある。流れを全部記憶した上でセリフを正確に発しながら長いシーンを撮るので、なおさら難しい作業ではありますが、その過程が面白いんです。全く情報がないまま、とはいえある程度こちらも予想して現場に行くわけですが、ほとんど、思ってもない方向に進む物語になっているんです。そう感じると、ただ新しい場所に遊びに来た子どものような気持ちになります。 ──基本的には、順撮りなんですよね? そうですね。この映画の構造を振り返ると、最初、娘と父親が建物の前に到着します。そして、エンディングでも、また父と娘がそこに登場し、今度は娘が先に建物の中に入る。それを観た観客は、普通だったら、初日と最後のシーンが同じだから、きっと同じ日に撮ったのだろうと予測されると思いますが、違うんです。全て順番通りに撮っています。自分視点に言い方を変えると、昨日は地下で娘の将来を心配している父親だったけれど、次の日、現場に行ってみたら、ある女性と一緒に暮らしている男になっているわけです。そういう内容を知るたびに驚かされますし、楽しいですね。 ──クォン・へヒョさんは、韓国ドラマや映画では、名バイプレイヤーとして欠かせない存在でもあります。そういった映画とドラマで演じるときと、ホン・サンス作品で演じるときの違いをどう捉えて、現場に向かっていらっしゃるのかが気になります。 まず、ほかのドラマや映画の場合、ホン・サンス監督の作品よりは出演料がたくさんもらえますね(笑)。そして、一般的なドラマや映画は、物語や全体の内容を知った上で、その中でやるべきことはなんだろう?と考え、自分を見せていく仕事ですね。監督や作家の方がこういうキャラクターを見せてほしいと期待している場合もありますし、それに忠実に演じることが重要になってくる。結果が良ければ嬉しいし、芳しくなかった場合は失望もしますが、自分の演技に対しては、満足できないケースも多々あって。 一方で、ホン・サンス監督の現場は、私たちの時代において、尊敬できる偉大な監督と一緒に仕事をしているので、彼のクリエイションを信じ、作品の一つの材料になっていると思います。例えば、パレットの上の絵の具のようなイメージです。その中で、私が黄色を見せたとしても、最終的にどういう絵が描かれるかはわからない。だから、演技に対しても、自分が満足できるか満足できないかの問題ではないんです。もし私の演技が失敗であれば、それは監督の失敗だろうなと思いますし(笑)、逆に言うと、監督の成功は私の成功でもあると捉えています。 ■社会や政治の停滞を最初に打ち破るのも、エンタメの役割 ──25歳で舞台俳優としてデビューされて、現在まで長らく活躍されていますが、芸能界に対し、どのような変化を感じていますか? 韓国だけでなく、世界のどこを見渡しても、いわゆるショービジネスの世界に身を置いている人たちの中で、長く続けられるということはとても稀で幸運なことだなと思っていますが、30年以上この仕事をしている中で、多くのものが大きく変わりました。例えば、上下関係の秩序が強要されていた時期もあり、公平な関係性を好む私はそれがとても不満でした。けれど今、後輩たちと仕事をしていると、そういう垣根がなくなってきて、仕事ができる人たちは、年齢関係なく平等な関係を好む方が多いので、年上にも萎縮することはなく、一緒に仕事ができてすごく楽しいなと思えています。 ──上下関係への執着が少なくなっているというのはいいことですよね。環境によっては根強く残っているところもありそうですが。 韓国や日本では、今だにそこにこだわってしまうような場面も多いのかもしれないですね。ただ、私は社会や政治の分野で停滞しているという雰囲気があったら、それを最初に打ち破るのが、私たちエンターテインメントの分野にいる者の役割だと考えているんですね。だから、なかなか新しいことに踏み出せず、自分たちが若い頃はこうだったと過去にこだわって、栄光を振りかざしている場面を見ると、ちょっと恥ずかしいなと思ってしまう。自分はそうなりたくない!と努力して生きてきたつもりではあるので。 ──韓国を代表するベテラン俳優のクォン・へヒョさんが、仕事のモチベーションを保ち、成長し続けるためにしていることがあれば、読者へのアドバイスも兼ねて教えてください。 今言える確信に基づいた言葉は、たった一つです。30代であれ40代であれ、どんな年代の人でも、年齢が上だからという理由だけで、年上の人があなたに忠告してきたら、その言葉は聞かなくていいということ。私の場合は、違うんじゃない?と思ったとしても、『はいはい』と応えて、自分のことを心配してくれて言っているんだろうという気持ちだけありがたくもらっていましたね(笑)。 『WALK UP』 6月28日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺、Strangerほかにて公開。 配給:ミモザフィルムズ 写真・内田裕介 取材と文・小川知子 編集・遠藤加奈(GQ)