中日が“11試合連続2得点以下”記録した年は『3位』強打はなくとも勝ち方はある 球団の歴史が示す戦術とは
◇渋谷真コラム「龍の背に乗って」 ◇30日 中日3―0DeNA(バンテリンドームナゴヤ) どうせなら球団タイ記録をつくった上で勝ってしまえ! 正直に書くと、記者席でそう思っていた。既に話題になっていた「2得点以下」の連続試合は、7回にカリステが3点目を挙げて「10」でストップ。なんでそう思ったかというと、今季の中日は、4月に「2失点以下」でも球団タイ記録(12試合連続)をつくっていたからだ。 失点に関するうれしい記録に並んだ年に、得点にまつわるうれしくない記録にも並びかけた。いかにも中日らしい話だが、記録を止めても負けていたら意味がない。勝って何より。胸をなで下ろしたところで、生き残った「11試合連続2得点以下」を知りたくなった。 1956年の8月25日から9月9日まで。神武景気にわき、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたこの年の中日は、野口明監督が率いていた。開幕前に初代ミスタードラゴンズの西沢道夫が、突然の「引退宣言」。周囲の説得で翻意したが、不穏な空気に包まれてのスタートだった。 夏場の「11試合」が示す通り、チーム打率は2割2分8厘。これでもリーグ2位というのは驚くが、52本塁打は同6位と破壊力には欠けていた。零敗は実に24。しかし、チームは決して弱くはなかった。 大矢根博臣、中山俊丈がそろって20勝を達成し、大エースの杉下茂も控えていた。チーム防御率はリーグ2位の2.03。完封勝利は30と、貧弱な得点力を強力投手陣が支える構図は、近年と同じなのだ。 優勝した巨人に10ゲーム差とはいえ、74勝56敗の3位。阪神を加えた3強と、国鉄、広島、大洋の3弱がくっきり分かれていた勢力図の違いはわかるが、並べなかった球団記録のシーズンには親近感も希望もわいてくる。 守って勝つ。この日もそうだった。3カ月たって開幕に戻った田中、ロドリゲスの二遊間は、ともに難しい打球を軽やかにさばき、投手をもり立てた。強打はなくとも勝ち方はある。68年前の先輩たちと同じように、しぶとく、手堅く。老舗球団の歴史は、そう教えてくれている。
中日スポーツ