謎の男女、芸人、探偵、ゾンビに死神…「又吉直樹」の脳内まで表現された“いかつすぎる”エッセイの中身(レビュー)
慶應大学卒業後にお笑いの道を志すも、売れないまま40代に突入した芸人・ピストジャムは、文筆業に活路を求め、2022年にはエッセイ集『こんなにバイトして芸人つづけなあかんか』(新潮社)を発売した。 その半年後に発売されたのが、ピストジャムの先輩芸人で作家としても活躍する又吉直樹の10年ぶりのエッセイ集『月と散文』(KADOKAWA)だ。この作品を発売後、又吉は、ピストジャムを誘い、第一芸人文芸部を立ち上げることになる。 常に又吉の活動を注視してきたピストジャムは、このエッセイ集をどう読み、何を感じたのか。 以下に、又吉が編集長を務める文芸誌「第一芸人文芸部」創刊準備号から抜粋して紹介する。 *** 『東京百景』以来10年ぶりとなる又吉直樹のエッセイ。しかもタイトルが『月と散文』。テンションがあがらへんわけない。2020年に文庫化された『東京百景』には「代田富士見橋の夕焼け」という百一景目がくわえられた。そのラストシーンは山を眺める光景で終わる。今回、その山の上に月がのぼった。
『月と散文』は信じられへん強度の「はじめに」から始まる。ずたぼろで泥まみれやのに、目ぇは死んでへん真っ直ぐな男の選手宣誓に脳天がしびれる。 章は【満月】と【二日月】の二つ。最初、なんで【満月】から始まって【二日月】やねん。普通は月の満ち欠けって言ったら、月がふくらんでいくんちゃうの? と思った。でも、読んでわかった。【満月】は無自覚に享受してた家族や友人との編、そして大切な人を失ってからの【二日月】。新月の翌日に現れるのが二日月。 喪に服す時間を行間で表現するなんて。卓越した文章表現のみならず、本を立体的に展開する技量に感服した。(松本大洋さんが描いたカバーと本体表紙の装画にも注目してほしい) くわえて、この章が変わるタイミングで一人称が「僕」から「私」に変化する。暗い夜道を照らしてくれてた満月の光は消え去り、いまあるのはたよりない二日月だけ。それでも歩いて行かなあかん。立ち向かわなあかん。いつかこうなるとはわかってたから。成長とは違う、大人の覚悟が感じられる。 内容は、言わずもがな。先ほど「10年ぶりのエッセイ」と表現したが、それは便宜上そう書いただけで、これはエッセイの枠に収まる作品じゃない。 まさに散文。もしこれをエッセイとするなら、キリストの誕生で西暦が紀元前と紀元後に分かれたように、今作でエッセイの歴史は塗りかえられた。 一般的にエッセイは、体験や気になった事象をもとに筆者がそれらに対する感想や思いを語る。でも、この作品はそれだけにとどまらん。作者自身が「本当にあったことと、自分が思ったことを切り離す作業は苦手だ」と語るとおり、この作品には体験と思考、現実と妄想の境界があいまいになったゆらぎが描かれてる。