大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#36
裁判の形を整えるための弁護人?
1967年に調査に応じた大分県在住の元一等水兵も、弁護人から「証言してもしなくてもさしたる変わりはないだろう。証言台に立って却って拙い結果になることもあり得る」と言われ、この言葉を尊重して、証言台には立たなかったという。この元一等水兵は、弁護人個人の働きというよりは、戦犯裁判における弁護人の位置付けについて疑問視している。 (元一等水兵の面接調書 1967年) 「この戦争裁判では殆ど発言の自由はなかった。随って我々が弁護人に種々話して頼んでおいたことも、果たしてどこまで裁判所に通じ得たかは全く疑問であった。弁護人はただ裁判の形を整えるために付けられたのだとの感を深くした。弁護人から判決後に裁判所に対し、『被告の最後の訴え』を許されたい旨嘆願したが、それさえも許されなかった」
不運な状況が重なった戦犯裁判
元一等水兵は、井上司令が「自分が命令したこと」を裁判の直前まで認めなかったことで、「共同謀議」とされて、「一蓮托生でやられた」と指摘しながらも、この裁判では不運な状況が重なったことも述べている。 (元一等水兵の面接調書 1967年) 「この事件には、命令服従関係についての指揮系統が曖昧であったという致命的な弱点の外、にも、審理の途中で裁判長が評判の絞首刑を最も多く出している冷酷な人と交代したこと、優秀な当初のワイマン弁護人が、ガスリー検事と法廷で格闘したため罷免されたこと、さらには親日的八軍司令官アイケルバーガーが、ウォーカーに代わったこと等々の不運が重なった」 井上大佐が弁護団に礼状を書いた一週間後の3月16日。判決で宣告されたのは、無罪2人、重労働5年1人、重労働20年1人、そして絞首刑が41人だった。
最後の嘆願書
死刑の判決後、死刑囚が集められた棟で、井上大佐は2年あまりを過ごした。その間、嘆願書を3回出したようだ。そして、1950年4月6日。日付が変われば執行される死刑を目前に、最後の嘆願書を書いた。井上大佐はキリスト教徒である。 (井上乙彦大佐の嘆願書 「世紀の遺書」より) 「嘆願書 マッカーサー元帥閣下 私は四月七日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島警備隊司令 井上乙彦であります。私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。 由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になっています。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されていたのであります。 若し間に合はばこの六名を助命して戴きたいのであります。 閣下よ。今回の私達の絞首刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は嘆願致します。これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給はぬと信じます。尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。願くは刑死しゆく私の嘆願書を慈悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。 四月六日 井上乙彦」 井上大佐は、家族に宛てた遺書にも、嘆願について触れている。 (井上乙彦大佐の遺書 「世紀の遺書」より) 「絞刑の友○名と準備室に曳かれて来ています。皆しっかりしているのには敬服とも感激とも言い様がありません。唯、頭が下るばかりです。前から責任者である私だけにして、あとは減刑して下さいと幾度か願ったが、終にこの結果になって御本人にも御遺族の方にも誠に相済みません」 井上大佐、藤中松雄を含む7人の死刑は、4月7日午前0時半ごろから二回に分けて執行されたー。 (エピソード37に続く) *本エピソードは第36話です。