桂米朝さん死去 ── 米団治「上方落語の世界を大きくしてくださった」。ざこば号泣
米朝事務所会長「無念でしょうがない」
次に、田中会長は「師匠と55年になるんですが、残念なことは昨日僕はお目にかかれてなかったんですよ。なんで最後にこんなことになったのか無念でしょうがない」とあいさつした。
後に会見の途中で米団治が「会長もうええやないですか。これまでそれ以上のことをしてもうてます。会長がいなかったら、米朝は人間国宝にもなれていません。ほんまに会長に感謝しています」と声をかける場面もあった。 米団治は「父であって、師匠であるということの境目は難しかったです。僕がほかのお弟子さんと一緒によろしくおねがいしますといっても、気恥ずかしさがありながら僕に稽古していたように思う。2人きりになった時『師匠』と言った時『今はそないにかしこまらんでええがな』とぽっと出た時があった」と振り返った。 ざこばは、自身が早くに父を亡くしアルバイトをしていた子ども時代の苦労話をした時、米朝さんから「苦労したんやなぁ。けどなぁ、世間にはもっと苦労して頑張ってる人間がいてる。あんまり苦労を自慢話にするな」と言うてくれはったんが、ものすごく『おっしゃるとおりです』と想った」とも話した。 今後これまで師匠に教わったこと、お弟子さんにどう継承していくのか? との問いに米団治は「米朝の功績のひとつに『全国落語会』がありました。全都道府県を落語でまわるという。米朝独演会は行ってない県がない。年に1回ほぼ同時期にやるというものを作り上げました。それをいろいろな噺家が後を継いで行ってやってくれています。東京・大阪含めて、全国の独演会というものをやりだしたのは米朝が最初です。そのスタイルを作ってきた、この形をわたくし、わたくしの弟子にも伝えていければ」などと話していた。 ■桂米朝(かつら・べいちょう、本名:中川清)。1923年11月6日満州大連生まれ。1947年9月、四代目桂米団治に入門。ほどなく大阪で初舞台。演目は「高津の富」。1963年中村扇雀(現・坂田藤十郎)ら仲間と「上方風流」発刊。1967年から関西テレビ「ハイ!土曜日です」の司会を務める。1969年に厚生年金会館で初の独演会「桂米朝スポットショー」を開催。これをきっかけにホール落語の全国展開を始める。1974年に米朝事務所を設立。1996年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2002年に文化功労者顕彰。2009年に文化勲章受章。