アスリート佐藤真海の再スタート
パラリンピアン佐藤真海
味の素スタジアムのバックスタンドの一角だけが、ファン、関係者、報道陣でぎっしりと埋まっていた。 全国障害者スポーツ大会、女子走り幅跳び。今や日本で一番有名なパラリンピアンが、派手なジェスチャーで観客席に向かって手拍子を求めている。まばらだった手拍子が次第に大きくなり、一体感を帯びてくる。後押しされるように2回目の試技の助走に入った佐藤真海が、トップスピードに達し、競技用義足をつけた右足で思い切り踏み切った。体を大きく伸ばしながら着地。砂が舞い上がる中で、4m75の速報値が表示される。大会記録を更新する好ジャンプに、佐藤はトレードマークの笑顔を輝かせながらバックスタンドへ向けて手を振った。 「短い準備期間の中で臨んだ大会でしたので、(4m)50を跳べればいいと思っていましたけど、観客の皆さんのおかげで記録が伸びました」
東京オリンピック・パラリンピック招致での最終プレゼン
2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まった9月7日のIOC総会での最終プレゼンでの感動的な演説は脚光を浴びた。図らずも「時の人」となった佐藤は帰国後、取材ラッシュと全国各地での講演で引っ張りダコになった。 佐藤が所属するサントリー・ホールディングスCSR推進部の部長で、佐藤の練習にも付き添っている坪松博之さんによれば、パラリンピックをはじめとする国際大会前と比べて「練習量は50%ほど」という。
今大会に出場した理由
それでも、今年で13回目を迎えた全国障害者スポーツ大会には絶対に出場したかった。何が佐藤を突き動かしていたのか。理由は2つある。 ひとつは全国障害者スポーツ大会が、第68回国民体育大会とひと括りで『スポーツ祭東京2013』と銘打たれて開催されたことだ。佐藤は言う。 「健常者、障害者と分けることなく、純粋なスポーツとして限界に挑戦する姿を見てほしかったんです」 IOC総会のプレゼンでは、骨肉腫により21歳のときに右足のひざから下を失い、絶望の淵に突き落とされた自らの体験談を「スポーツの力」として訴えた。以下はプレゼンにおける一節だ。 <私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです。スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました。それは、2020年東京大会が世界に広めようとしている価値です> 限界に挑戦する過程で、本格的に競技を始めた1年後に迎えた2004年のアテネ大会を皮切りに、3度のパラリンピックに出場。2008年の北京大会では6位入賞を果たした。 この日の記録は、4月にマークした日本記録の5m02にこそ届かなかったものの、昨夏のロンドン大会でマークした4m70を超えた。練習不足うんぬんは関係ない。プレゼンでの言葉を実践することに意味がある。坪松さんが佐藤の熱い思いを補足する。 「最終的には佐藤の意思で(出場を)決めました。記録よりも出ることが大事であり、意義のある大会でしたけど、根を詰めて練習をしていないことを考えれば記録そのものも上出来ではないでしょうか」