小説の筋はどうやって作ってますか? 朝井リョウさんと高瀬隼子さんの小説をめぐる対話
新たな代表作となる衝撃作『生殖記』が刊行された朝井リョウさん。初めての「恋愛」小説集『新しい恋愛』が話題の高瀬隼子さん。互いの新作を通して小説の現在地を語り合った「群像」2024年10月号の対談を再編集してお届けします。高瀬さんは、朝井さんの『生殖記』をどう読んだのか、後編は互いの小説論から始まります。(前編〈内側の「底なしの穴」と外側のフィクションの世界〉はこちら)
三人称か一人称かで決まる距離感
高瀬朝井さんの最新作『生殖記』(小学館)を発売前にプルーフで読ませていただきました。また、これは……と思い、『正欲』(新潮社)も併せて読み返しました。 10月に刊行される『生殖記』も、これまでの朝井さんの作品と同様、新しい視点を与えられるだけでなく、考えたふりで止まっている自分自身を問われるような感覚があり、面白かったです。プルーフの表紙に「語り手について言及されないよう、ネタバレ厳禁でお願いいたします」という編集部からの注意書きがあったので、喫茶店で読むときも席に忘れたり、誰かに持ち去られたりしないよう気をつけました(笑)。 朝井新聞で連載していたので、「今さらネタバレって何?」案件なんですけどね。お忙しい中本当にありがとうございます。 高瀬でも、これから読む方にはやっぱり前情報なしで、『生殖記』というタイトルだけで入ってほしい作品です。私は序盤、この作品の語り手は●●●なんじゃないかなと予想しながら読んでいたんですけど、見事に裏切られました。ヒトってこうだよねという目線が楽しいなと思っていると、時々、横っ面を張られるような言葉も出てきて、自分自身の偏見や思い込みを省みてハッとさせられることも多くて。飄々とした語り口で、人間に対して距離はあるけど、突き放してもいない、絶妙なバランスがとても魅力的でした。 朝井私はいつも一人称で書くか三人称で書くかすごく悩んで、一人称で書き出して途中で三人称に変えてみたり、その逆もしかりという感じで、書き直しながら進んでいくんです。『生殖記』の連載が始まるときは、登場人物との距離感を最大にしたいと考えていたんですよね。人類に肩入れせずに書きたい、人間というものを憎んでもいないけれど特に思い入れもない、人間的な倫理のジャッジからかけ離れた視点で書いてみたい、という。そうなると三人称でも近すぎて、どうしようどうしようと長い間悩んだ末の、今作の設定でした。高瀬さんは人称について、こだわりなどありますか? 高瀬私は三人称の語りを模索中です。大学2年生から新人賞に投稿を始めて31歳でデビューするまでは、ほぼ8割の作品を一人称で書いていました。『犬のかたちをしているもの』(集英社)ですばる文学賞を受賞したとき、奥泉光さんが選評で「(応募作には)三人称の作品が少なかった、一人称が多かった」ということを書かれていて、直接お目にかかったときも「三人称の語りでいける距離もあるよ」とアドバイスいただいたので、そこから三人称でも書いてみようと思ったんです。 でも、三作目の『水たまりで息をする』(集英社)は三人称風にしてはみたものの三人称小説にはなり切れず、その次の『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)も男性のパートは三人称で書いたんですけど女性のパートを一人称に頼ってしまうとか、揺れ動きながら今に至っている感じです。 朝井そうだったんですね。三人称か一人称かで決まる距離感って、私にとっては本当に大切なので、まずそこがパシッと決まるかが重要なんですよね。 そこの選択って、小説に滲み出る作者の存在感にも影響すると思うんです。そして作者の存在感が強まるほど、その時点で作品にバイアスがかかる。どうすればそのバイアスを減らせるのか、特に最近はよく考えます。高瀬さんの作品はそういう点でも私の好みなんです。冒頭の話に戻るようですが、それこそ人間そのものにあまり思い入れが強くない気がして。 高瀬自分でも思い当たるところがあります。私はうっすら人間が嫌いで、自分についても悪いところばかりが目についてしまうし、どの属性の人にも悪いところがあると思っているんです。一方で、極悪人もそうそういないと思っているので、悪だけの人は書いていないつもりなんですね。どの登場人物も、現実に一緒に働いたり、友人になってみたら、それなりにいい人なんだろうなって。 朝井私がデビューしたときに比べて、今は高瀬さんのようなスタンスが保ちづらくなっている感があって、むしろ作者のバイアスが強くかかっている作品だと主張したほうが売り出しやすいのかも、なんて思います。書いている最中にも、外からどう見えるか気にしてしまう邪魔な気持ちが入りやすくなりました。そんな中、『生殖記』でついに禁じ手を使ってしまった、という感覚です。 高瀬さんは人間を主人公にしながら、絶妙な距離感を保って書かれていますよね。作者はあらゆる立場の登場人物の味方ではないというのが、どの作品からも伝わってきます。 高瀬朝井さんの『スター』(朝日新聞出版)の中で、主人公のつくる映画が全方位に配慮したり誰も傷つけない作品をつくろうとし過ぎているんじゃないかと指摘される場面が出てきて、ハッとしたんです。付箋に「私もそれあったかも」と書いて本に貼りました。『スター』は創作に関わる全部の言葉が自分に向けられている気がして、深く抉られ、何度も読み返した作品です。 創作して発表すると誰でも読めてしまうから、読んだら傷つくかもしれない人にも届く可能性がありますよね。そんな人を傷つけてでも書きたいと思うのは暴力的だと自覚しつつ、全方向に配慮というのも違うと思うし……難しいですね。 朝井それもありますし、逆に、自分の属性と似た登場人物が作中で絶対に傷つけられない場所に置かれているとモヤモヤするということもあります。“誰も傷つけないフィクション”より、“フィクションでは誰もが平等に傷つけられても大丈夫な強度の現実”を構築したいです。濃淡は違えど、多くの人がさまざまに悩みながら書いていますよね。 高瀬『生殖記』の語り手は三人称よりもさらに遠い目線で、人に対して厳しいことも言いますが、冷酷さはないように感じました。 私が特に好きなのは、人は生まれてきた時点で、生きる「意味とか理由とか価値とかぜーんぶオールクリア~!」と言っていたところです。本当じゃんっと思いました。生まれただけでOKだ、って。 朝井親個体と少しでも異なるDNAで生まれてきた時点で生物としての役目は果たされているというのは、見逃しがちだけど強固な真実だと思うんです。それに、ヒトという種と距離をとって、可能な限りフラットに見つめようとすると、むしろ通常の一人称や三人称では出てこない文章が出てくるんだという発見にもなりました。この文脈では何も満たされないのが人間なんですけど、誰かにとっておまじないみたいになればいいなと思っている箇所でもあったので、嬉しいです。 高瀬 お守りになる文章でした。きっと私だけじゃなくて、いろいろな人のお守りになるだろうなと思います。