知られざる「帝大特権」、東大・京大生はかつて無試験で弁護士・判事になれた
帝大法科に匹敵する私立法科大学を創設しようという動きも
また、「特権」廃止法案が審議され、実現する過程で大きな役割を果たした奥田義人は、中央・明治・日大・法政の四大学合併を熱心に主張していた。 奥田は帝大法科の前身である東京大学法学部の卒業生だが、中央大学創設者の1人であり学長も務めている。奥田の文部大臣時代に四大学合併案は進捗し、日大創設者の一人で貴族院議員の松岡康毅(検事総長、農商務大臣を歴任)を校長、富井政章らを教頭もしくは理事とする新大学の人事案が新聞で報道されもした(『読売新聞』1913年5月14日)。こちらも頓挫するが、帝大法科に匹敵する私立法科大学を創設しようという動きは実際に存在したのである。 富井は、帝大「特権」を廃止するならば受験資格を厳格化するよう求めた。政府が想定する中学卒業という基準はまったく「不十分」である。「普通教育の程度は高等官、司法官にならむとする者に対して今少しく真面目に、今少しく高いものにならなければいけまい」と訴えた(第31議会議事速記録)。 帝大法科の「特権」がなくなり、教育レベルの怪しい人々が受験対策をして試験会場に押しかける。富井の「私立学校大刷新」や受験資格厳格化の提言は、一発試験がもたらす官吏の質の低下をいかに食い止めるか、という問題意識に貫かれていた。 ■「森厳なる訓練、秩序ある教養」 「特権」を剥奪される帝大の学生も決起した。1913年12月23日、それまで沈黙を守っていた東大法科の学生約1300人のうち約800人が法科第32号教室に結集し、学生大会を開催したのである。 議長に選出されたのは法科大学経済学科4回生森戸辰男で、卒業後に東大助教授となり、1920年に論文「クロポトキンの社会思想の研究」の筆禍事件で大学を追われた人物として知られる。学生大会は30人ほどの委員を選び、「特権」維持と予備試験免除の維持を求めて運動することを決議した(『東京朝日新聞』1913年12月26日)。 年明け1月4日の『読売新聞』は、森戸をトップとする代表委員が枢密院などに対して運動を開始したこと、京大法科や全国の高校生、卒業生などとの連携活動を伝えている。 森戸ら東大側の主張をまとめると次のようになる。 第一に、帝大は帝国大学令で「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スル」機関と定められている。国家の必要に応じているので、その出身者には「一定の資格」が保障されている。したがって(無試験採用は)いわゆる「特権」などではなく「当然の資格」である。専門学校令下の私立大学とはそもそも立場が違うのである。 第二に、帝大出身者は「森厳なる訓練、秩序ある教養の下に数年の切磋、数次の淘汰を経た」人材で、「仕官就職」において「一定の資格」を持つのは当然である。帝大側の理想は私学を改善して地位を高め、官私の待遇を同一にすることだが、現状の優劣は歴然としている。この差を見ずに「帝大特権」を云々するのであればその「謬妄」を正し、「国家の理想とする設備の下に厳密なる教育を受けたる帝大法科卒業生の人格学識を保障する相当の資格」を主張せざるを得ない(『読売新聞』『東京日日新聞』1914年1月15日、『教育時論』第1036号)。 学生大会の模様を伝えた前出の『東京朝日新聞』によると、運動のきっかけは試験制度改正同志会をはじめとする私大生の増長に東大生が我慢できなくなったことにある。 私大側の「帝大生が何処がエラい」「向ふも大学生なら此方(こっち)も大学生だ」という調子に、それまで気にもとめていなかった東大生もさすがに腹を立てた。「私立大学生は何んだ試験に落ちた所謂低脳児ではないかソンな者と同一に見られて堪るものか」という気運が生まれた、とある東大生が語る。一方さすが東大というべきか、「機会均等主義」を唱えて学生大会決議に反対した者もいた。 『「反・東大」の思想史 』(新潮選書、尾原宏之著)
Forbes JAPAN 編集部