電話機は近隣住民で共有、団地が増え生活様式一変…激動の時代「昭和」の思い出
戦前、戦中、戦後、高度経済成長など、激動の昭和時代は人々の生活にどのような影響を与えたのか。昭和の時代を生きた人々を取材した。 【画像】「昭和の猫町」東京・青梅市、町のあちこちにネコのオブジェやネコのパロディー映画看板
■「昭和レトロ」再現の街並み 東京・青梅市
「昭和レトロ」を感じさせる町として知られる東京・青梅市。現在「昭和の猫町」をうたい、町のあちこちにネコのオブジェやネコのパロディー映画看板などで、散策の目を楽しませてくれている。 平成生まれの駒見直音アナウンサーが旧青梅街道沿いで最初に見つけたのが、木造のバス停留所。今も都バスが止まる現役のバス停だ。 一説には「昭和レトロ」という言葉は青梅が発祥との説があり、横丁には昭和の風情を残した街並みがある。 かつて3つの映画館があった青梅には、看板を描く職人が何人も住んでいたという。古民家を改装して造られた昭和幻燈館には、そんな映画の記憶が展示されている。まさに、昭和へタイムスリップ。 昭和幻燈館 横川律子さん(85) 「(Q.昭和って、どんな時代?)昭和って隣り合わせが、みなさんすごく仲が良くて。とっても良い時代でした」
■電話機は共有…懐かしい「昭和」の思い出
激動の昭和は私たちの暮らしを大きく変えた。高度経済成長期を迎えた昭和30年代から40年代、団地の建設が盛んに行われ、ブームとなった。当時のニュースでは…。 東映ニュース 1968年(昭和43年)3月6日 「90番」 「抽選に一縷(いちる)の望みをかける。倍率は平均112倍」 「日本住宅公団だけでも、全国に38万戸。120万人が団地に住む。コンクリートの巣箱から一斉に飛び立つ働きバチ。団地サラリーマンの朝は早い」 「隔絶された部屋ごとに、それぞれの城を守る主婦たち。無限にエスカレートする購買意欲。所狭しと並ぶ道具類に、2DKの空間はほとんど占領されている」 都内の巨大団地群の一つ「光が丘パークタウン」。総戸数1万2000戸を擁する団地だ。この団地でボランティア活動を行っているグループに9日、話を聞いた。 光が丘ボランティアの会 小山謙一会長(82) 「(Q.団地の魅力は?)団地入ると家賃が安いと教わっていたから」 84歳 「冷蔵庫(のスペース)が付いて、キッチンがこんなふうになって。そう、あれがもう憧れ。現代的なお風呂があって、お手洗いも付いて」 戦後の復興期、自宅に風呂のない家も多く、銭湯通いをしていた人がほとんどだったという。 86歳 「みんな友達同士で行くからね。学校から帰ってきたら、みんなで一緒に行って。みんなでわいわい遊びながら、入って楽しかった」 「三種の神器」の一つ、洗濯機については次のように話す。 81歳 「洗う所と、隣が二槽式で脱水するのがあったの。近所にないからね、脱水させてくれって来たよ、みんな」 「(Q.脱水機ない時は?)ローラーでね、間に挟むとローラーで(絞れる)」 昭和30年ごろはまだ洗濯機が高価なため、「文化洗濯場」と呼ばれるコインランドリーのような場所が繁盛。使用料は30分30円だったという。 81歳 「(Q.みなさんの家に電話は?)呼び出し」 「(Q.呼び出しとは?)うちの場合は、前の家に金持ちがいたの。そこに電話があって、電話がうちに来ると呼びに来て、行って」 84歳 「電話持っている人は大変よ。『電話が来たよ』って言いに行かなきゃいけないから。番号教えなくても、みんな自然と覚えちゃって」 90歳 「私は農協がそばだったのね。彼氏に電話しようと、そこまでいかなきゃいけないけど、行って電話して、楽しかったけどね」