じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」
日本文化はハイコンテキストである。 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 【写真】外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
「稲・鉄・漢字」という黒船
最初に、日本の歴史を大きく理解するにあたっては、日本には「何度も黒船が来た」と見るのがいいと言っておきたいと思います。そう見たほうが日本をつかめるし、また、そう見ないと日本がわからないことが多い。 ペリーの黒船以外にもイギリス艦船やプチャーチンのロシア艦船も来ていたのですが、それだけではなく鉄砲の伝来も、何度かにわたるキリスト教の宣教師たちの到来も黒船でした。それ以前はどうかといえば、もちろん元朝による蒙古襲来もそうですが、禅やお茶や朱子学(宋学)や『本草綱目』といった博物全書なども、日本人をびっくりさせた黒船だったのです。黒船だったというのは、それらはグローバライザーだったということです。 もっと前なら、当然、仏教や建造技術や儒教の到来が日本を変えた。では、さらにその前の「最初の一撃」は何だったのか。 原始古代の日本に来た黒船はなんといっても「稲・鉄・漢字」です。この三点セットがほぼ連続してやってきた。約1万年にわたった自給自適の縄文時代のあと、中国から稲と鉄と漢字が入ってきて日本を一変させたのです。紀元ゼロ年をまたぐ200~300年間のこと、弥生時代前後の大事件でした。 なぜ「稲・鉄・漢字」が黒船だったのかを理解するには、その前の縄文時代の社会文化のことを少しは知らなければなりません。 日本列島がアジア大陸から切り離されたのは約2000万年前のこと、現在の列島のかたちが定着したのは300万年前でした。地質学では「島嶼列島」と言い、その形状が枝に小さな花を点々とつけているようなので「花綵列島」とも言われてきました。私は、日本列島がアジア大陸という大きな扉にくっついた把手のようにも見えるので「把手列島」とも呼んでいます。 15万年前の日本にはマンモスやナウマン象やトラが跋扈していましたが、1万年前にはすっかりいなくなっています。この15万年前と1万年前のあいだに、日本列島にヒトが住みはじめたのです。気候や照葉樹林の植生がよく、水がおいしかったのだろうと思います。おそらく3万年前には定住がはじまっていた。いわゆる縄文人です。 縄文土器は約1万2000年前に出現します。最初は早期の隆線文土器というもので、そのあと前期・中期・後期・晩期と変化した。 前期では円筒や底が平らなものがあらわれ、屈葬や耳飾りが流行します。中期は大集落や大型住居が登場し、土器に蛇文があらわれ、性神が崇められました。アニミズムが広まっていったのです。岡本太郎を驚かせた火焔土器は中期の長野県や新潟県に集中しています。 後期の縄文人は協業や分業をはじめます。共同墓地、環状列石(ストーンサークル)が登場し、呪術用具がさかんにつくられた。晩期になると人々は文身をほどこして、体や顔を飾りました。文身とはイレズミのこと、「文」とはアヤをつけるという意味です。また、雑穀を育てて収穫し、煮たり搗いたりして食用にした。 縄文社会には「縄文語」ともいうべき言葉によるコミュニケーションがありました。これは「原日本語」にあたるもので、もっぱら話し言葉に頼っていただけで、文字はありません。読み書きする文字がなかったのです。日本人は長らく話し言葉によるオラル・コミュニケーションだけに頼ってきたのです。そのぶん縄文などの文様や模様が、つまりは「文」が重要だったわけです。 こういう縄文社会に「稲」と「鉄」と、そしてやや遅れて「漢字」がやってきた。強力なものたちでした。つまりグローバライザーとしての黒船でした。日本はここから一途で多様な国をめざします。
松岡 正剛