旧統一教会、エホバ…なぜ世間にこれだけ叩かれてもなお、惹かれる信者がいるのか……そのヒントは“カレーライス”にあった
カルトがまったく存在しない社会はない
そもそも、カルトとされるような集団に加わった人間を幸福とするのか、それとも不幸とするのかは、かなり難しい問題である。 本人がそれをどうとらえるかということもあるし、周囲の、とくにその人間と密接な関係にある人間のとらえ方もそれぞれだからである。同じ人間でも、あるとき重大な疑問を抱き、脱会して集団にいた過去を不幸だと考えるようになることもある。一方で、最後まで幸福を感じ続けるような人間もいる。 困難を感じる人間がいるとすれば、それは、いったん集団のメンバーになりながら、途中でそこを抜けた人間だろう。 集団にいたあいだは、その活動にすべてを捧げていた。ところが、信仰の内容に不信感を抱いたり、組織の方針に疑問を感じたりして葛藤し、そこを抜けたとき、過去の自分の人生が無駄だったのではないかという思いに駆られる。自分が間違ったことをしていたのではないかと感じるかもしれない。 そうした人間はどうなるのか。 当初の段階では、自分が所属していた集団の悪をあばき、それを徹底して批判する行動に出やすい。周囲に同じ体験をした元信者がいれば、思いを共有することもできる。そうなれば批判にも勢いがつく。 だが、それが本人にとっての幸福に結びつくわけではない。元いた集団から逆に批判されたり、誹謗、中傷されることもある。それで傷つくことも多い。それにいくら自分が厳しい批判を展開しても、集団が簡単に崩壊するわけではない。やり場のない怒りにどう折り合いをつけてよいのか、かえって問題が難しくなっていく。 過去はなかったことにはできないという根本的な事柄がある。 だったら、そうした過去にも何らかの意味を持たせなければならない。どういう意味を持たせるのか。脱会した人間のその後の人生は、そこにかかっているとも言える。 カルトなど存在して欲しくない。そう考える人は少なくないだろう。だからこそ、旧統一教会に対する解散命令請求に多くの支持が集まった。 しかし、人間はどこかに精神のよりどころを求めようとする。その重要な対象が宗教である。しかも宗教はおしなべてカルトとしてはじまるのだ。 カルトとしてはじまった宗教は、次第にカルト性を薄めていき、社会に定着していくわけだが、そうなると、当初その集団が持っていた魅力も失われていく可能性がある。そうなれば、新しいカルト=宗教が誕生し、同じような歴史がくり返されていく。 カルトがまったく存在しない社会はない。私たちは、それを踏まえた上で、そうした集団がどういうものかについて知識を増やし、それが存在する意味について考察を深めていく必要がある。対処の仕方はそれしかないとも言えるのである。 写真/shutterstock
---------- 島田裕巳(しまだ ひろみ) 1953年東京都生まれ。宗教学者、文筆家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在、東京通信大学で非常勤講師を務める。主な著作に『日本の10大新宗教』『葬式は、要らない』『戒名は、自分で決める』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『もう親を捨てるしかない』『キリスト教の100聖人』(すべて幻冬舎新書)、『性と宗教』『帝国と宗教』(ともに講談社現代新書)等がある。 ----------
島田裕巳