津波に流された夫、叫んでくれた「私の名前」 胸に刻んで13年 #知り続ける
奪われた命と残された命
「寒い…!」と目が覚めた瞬間、目の前に広がっていたのは瓦礫の山。首だけが外に出ていて、体は瓦礫に埋まっていたという。上を見上げると、灰色の空からはみぞれが静かに降っていた。 「助けて!」 ひで子さんは幸運にも近くにいた消防団に救助され、またすぐに気を失ってしまう。その後、病院に運ばれ一命を取り留めたが、あと5分遅ければ低体温症で死んでいたという。津波に飲まれた夫の利雄さんと叔父の鉄弥さんは、その後、瓦礫の中で遺体となってみつかった。 利雄さんが大切に持って逃げた旅費が入ったバッグは、今もみつかっていない。 相馬市で津波などによる犠牲者は458人にのぼった。
亡き夫の声─忘れられないあの日の記憶
あの日から13年。ひで子さんは今、「語り部」の活動を続けている。相馬市を訪れた修学旅行生や観光客などに津波で被災した当時の状況を語る。震災の翌年から活動を始めたが、当初は語る度に悪夢のようなあの日の光景が浮かび、涙が溢れうまく伝えることができなかった。今も涙は出てしまうが、伝えるべきことがだんだん分かってきたという。 「なんで、なんで!!『逃げよう』って言えばみんなで逃げたのに…何を考えていたのか。逃げるって考えがあの時なかった…。一言言っていれば…それが辛い。忘れられない。今も苦しい、悔しいんですよ…」。 犠牲になった人の供養のためにと、思いを込めて語り部活動を行っている。涙を浮かべながら、熱く語り掛けるひで子さんを前に、心を動かされる人は少なくない。今では海外からもひで子さんの言葉を聞きにくる人がいる。ひで子さんが特に伝えたいのは、「自分の命を守る事」。大きな地震のあとは、すぐに「逃げよう」と声をかけて逃げてほしいという事。そして、風化させない事だ。 ひで子さんが語り部でいつも話すことがある。それは、夫の利雄さんのこと。 「これまで夫からは『おーい』や『かあちゃん』と呼ばれてきたのに、あの時、『ひで子―!』って私の名前を呼んでくれたの。旅費の入ったバッグを持って津波に飲まれながらね…。私の名前を呼んでくれて、なんか、うれしいなって。ひで子って名前を覚えててくれてありがとうって言いたいのかな…。」。 ひで子さんは、耳に残る利雄さんの最期の声をずっと胸に刻んでいる。 この記事は、福島中央テレビとYahoo!ニュースとの共同連携企画です。
福島中央テレビ