津波に流された夫、叫んでくれた「私の名前」 胸に刻んで13年 #知り続ける
福島中央テレビ
「お客さんの食事の準備をしなくちゃ…」。そう思い、2011年3月11日、当時民宿を営んでいた女性は避難を躊躇った。地震で落ちた食器の片付けをし、宿泊客の夕食の仕込みをしなければいけなかった。地震発生から約1時間後、女性は夫と叔父とともに9メートルを超える大津波に飲まれ、2人を失う。自らも低体温症で死の一歩手前。「繋いでいた手がすり抜けていった、夫は叫んでいた…私の名前を…」。東日本大震災の大津波、避難するきっかけは複数回かあったが、「大丈夫だろう」と思ってしまうワケもあった。 『逃げよう』って言えば… 亡き夫の声─忘れられないあの日の記憶
福島県相馬市 あの日の記憶
福島県相馬市の五十嵐ひで子さん(当時63)は夫の利雄(当時67)さんと娘の基恵(当時37)さんと3人で、「民宿いがらし」を切り盛りしていた。民宿は海岸から約200mの場所にあり、漁港にも近く、ほっき貝や青のりなど新鮮な海の幸をふんだんに使った料理が人気だったという。多い時には1日30人ほどの客が利用し、宿泊部屋の掃除や夕食の買い出しなどで大忙しだった。 夫の利雄さんは元々自衛隊員で、現役時代はほとんどが単身赴任だったが、退官してからは、民宿のお手伝いをしていた。ひで子さんと基恵さんが料理を担当する一方で、利雄さんはゴミ出しや食事の片付けなど2人が気付かないようなところを先回りして済ませくれるような人だった。口数が少なく、ひで子さんは「夫から名前で呼ばれたことはほとんどない」と話す。 「気が利いて優しい人だったんだけど、いつも私のことは『おーい』とか『かあちゃん』と呼んでたんです。単身赴任も長かったから恥ずかしさもあったのかな…」 そんな利雄さんは、ひで子さんと北海道への2人だけの旅行を計画し楽しみにしていた。旅費は利雄さんが自分のバッグに大切に保管していたという。
「大丈夫、津波は来ないべ」地震発生からの記録
2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。子供を迎えに行った基恵さんの帰りを待ちながら、ひで子さんは「民宿いがらし」の宿泊客のため夕食の準備に取り掛かろうとしていた。何かにつかまっていないと倒れてしまうほどの激しい揺れに見舞われ、棚の皿などが次々に落ち、割れてしまった。当時、叔父の鉄弥さん(当時84)も民宿にいた。揺れが収まると、外にいた夫の利雄さんが「大丈夫か?」と急いで戻ってきてくれ、ひで子さんと一緒に民宿の後片付けをしていると、外からは多くの人の声が聞こえてきたという。 「近所の人たちが出てきて、海をみていた。この地域では『潮が引くと倍になって大きい津波がくる』って言われてたから。引き潮が起きてないか確認していた」。 ひで子さんも気になり見に行くと、海は普段と変わらない様子だったため「これなら大丈夫だ」と思った。この時、相馬市には大津波警報が出されていたが、ひで子さんは気づかなかった。家にあったテレビは地震で倒れ壊れてしまい、さらに停電も起きていたため、情報が得られる状況ではなかったのだ。 「民宿の片付けをしながら、何度も夫と堤防まで走っていって、海の様子を見に行ったね。変化がないと分かればまた片付けに戻る。しばらくはこの繰り返しだった」。