『不適切にもほどがある!』が令和のコンプラや多様性を「冷笑」しているように見えた理由
『ふてほど』は多様性尊重へのバックラッシュだったのか
宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『不適切にもほどがある! 』(TBS系、以下『ふてほど』)が、3月29日に最終回を迎えた。 【画像】「濡れ場で女優を守る仕事」ではない!『エルピス』でICが果たした役割 このドラマは、昭和から令和にタイムスリップしてきた体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)の一見“不適切”な振る舞いや極論が、硬直化したコンプライアンスや多様性尊重の規範に縛られた令和の人たちに気づきを与える……というのがストーリーの大枠だった。 本作に対しては、「昭和と令和、どちらも生きづらい」ことをコメディとして楽しく描いた作風を痛快だと喝采する声が寄せられた一方で、令和の抱える問題を雑に笑いで茶化すような描写に対して、「せっかく変わりつつある社会へのバックラッシュを助長しかねない」という批判の声も上がった。 どんな点が雑でバックラッシュの懸念があるかについては、筆者を含め、すでに多くの記事が出ている通りである(筆者の過去記事:クドカン脚本の誤算? 『不適切にもほどがある! 』はなぜ“うかつ”な描写が目立つのか)。 宮藤官九郎が脚本家として頭角を表し、活躍してきた90~00年代にかけては、いわゆる“サブカル”と言われる文化が隆盛を極めた時代だった(ここではそれを便宜的に「平成サブカル」と呼ぶ)。 確かに当時のサブカルには、正義や良識といった特定の立場にコミットすることを嫌い、あらゆるものを笑いの対象にして冷笑する露悪的な側面があったことは否めない。すべてを「どっちもどっち」と俯瞰でみて相対化するような態度は、今となっては批判の憂き目に遭うことも多い。 しかし、宮藤自身は、そんな平成サブカルの渦中にどっぷりと身を置きながらも、時代に合わせて絶えずアップデートを繰り返してきた作家でもある。 そんな彼が、なぜ最新作の『ふてほど』では、一見、冷笑や逆張り、バックラッシュとも受け取られかねない描写を繰り返したのか。そこには、本作を「昭和と令和の二項対立」という構図で捉えていては見逃してしまう、宮藤の世界観と信条があるのではないかと思う。 本記事では、クドカン作品の近年の作風の変化を振り返りつつ、『ふてほど』が描きたかった本当の対立構図とは何かについて前後編に分けて考えていきたい。