井上荒野『錠剤F』 テーマは「孤独」。平凡な人々の日常がふと揺らぐ瞬間を掬い取った短編集。“嫌な気持ちになる小説もいいじゃん、って私は言いたい”
嫌な気持ちになる小説もいいじゃん、って私は言いたい
井上荒野さんの新作『錠剤F』は、平凡な人々の日常がふと揺らぐ瞬間を掬い取った短編集。なんとも言えない不穏さ、不安定感が読者の心を揺らす刺激的な十編は、どれも意外なところに出発点が。井上さんならではの、短編の作り方とは? テーマは「孤独」 ―― 短編集『錠剤F』、非常に面白く拝読しました。なんでしょう、いい意味での、このぞわりとさせられる読み心地(笑)。 五年くらい前から「すばる」に不定期で短編を書いていたんです。最初に担当者さんと相談して「孤独」という大きなテーマを決めたんですけれど、そうしたら後味の悪い話ばかりになりました(笑)。 孤独にもいろんなバリエーションがあって、いつも人と一緒に賑やかに遊んでいる人だって、孤独じゃないとは言えない。誰にだって人生のいろんなところ、日常の隙間に孤独があるけれど、意外とみんなそれを見ないようにしているかもしれないなと思うんです。今回は、そこを掘り起こしてグロテスクに拡大した感じですね。 ただ、どんなに孤独でも、人は生きていくべきだと私は思っているんですね。だからこの短編集では、孤独に負けた人のことは書いていないんじゃないかな。 ―― 確かに、そうではない人たちの話だなと思いました。この短編集の中で最初に発表されたのは「刺繍の本棚」ですね。刺繍作家が、家の中の光景を題材にした作品の個展を開きますが、実はその直前に家に警察が来て夫が逮捕されたという。 ずっと一緒に暮らしていても、相手のことは分からないですよね。愛していた人が、実はすごくひどいことをやっていたらどうするかなと考えました。 刺繍作家にしたのはどうしてだったかな……。夫が逮捕されるということと、真逆のものを考えたのかもしれません。こんなに緻密に刺してきた日常を裏切るものが現れた、というイメージだった気がします。 ―― 展示作品の中でも大作なのが、夫の本棚を刺した作品。夫の職業が古書店の店主で、家にも本棚があったからですよね。 主人公と同じように、私も家の本棚って風景として憶えているんです。子供の時から父の書斎の本棚のここにこういうタイトルの本があった、というのは憶えていたし、今も夫が古書店をやっているので、夫の本棚の風景を憶えている。日常ってそういうふうにして自分に馴染んでいくものですよね。人によってはそれが調味料の棚だったりするかもしれないですね。 ―― 個展で、「これはうちの本棚だ」「いつうちに忍び込んだんだ」と文句を言ってくる人がいます。他の短編でも、論理的には説明できない人や出来事がよく描かれます。 小説の中で何か変なことを起こしたくなるんですよね。私も論理的に書いているわけではないんです。正確にいうと、論理的に書きたくない気持ちがあります。小説が図式的になっちゃうのが嫌だから。 最初の設定はある程度考えるんですよ。でも、物語をきっちりした構造では書きたくないんです。まずは思いつきに従って書いて、そこからもう一回考えていくというのが、私の短編の作り方だと思います。 ―― 長編を書く時と短編を書く時では、やはり違う面白さがありますか。 そうですね。短編のほうが自分に向いているというか、書くのが好きなんですね。短編のほうが、イメージしたものをどう配置するか考えているうちに、思いがけないものができるんです。その、思いがけないものに転換する感じがすごく好きなのかな。長編はもうちょっと計画的に考えなくちゃいけないんですけれど。 最初の発想とは違う話にしたくなる ―― 巻頭の「乙事百合子(おつことゆりこ)の出身地」では、コロナ禍でずっと自宅で過ごしている高齢の女性のもとに、突然、古い知人から電話がかかってきて「作家の乙事百合子の出身地を知らないか」と訊いてくる。 これを書く少し前に、義母から電話がかかってきて、林真理子さんの出身地を訊かれたんです。義母は文学に無縁なのに。百歳を超えていてホームにいるんですが、たぶん、そこでそういう話が出て、「うちの嫁が作家だから訊いてみる」となったんでしょうね。私も、突然訊かれたので、「や、山梨……?」とか言って(笑)。それが面白くて自分の中に残っていました。 乙事って、長野県のうちの近くに本当にある地名なんですよ。私は面白い地名採集をやっていて、登場人物の名前に使ったりとかしてます。 ―― そうだったんですか。物語は予想外の展開になりますよね。途中から、その女性の家にやってきた訪問販売員の女性の視点で進行していく。 乙事百合子のことはあんまり筋には関係ないですよね。これはなかなか面白いものができたんじゃないかと、自分でも気に入っています。でも、どうしてこういう話になったのかよく分からないんです。 書いているうちに全然違う話にしたくなるんですよね。最初にこのモチーフでこういう話にしようと思っても、書き進めるうちに「いや、私がこのモチーフを選んだのは、別の理由だったんだ」と分かることもあります。それで全部書き換えちゃったりする。 ―― 収録作の中で、そういう経緯で全部書き換えたものってありますか。 「ぴぴぴーズ」がそうでした。これは青年が知らない女性から突然「子種をください」と言われる話ですが、最初は彼の恋人の視点で書こうと思ったんですよね。それで、夫や男性編集者に「子種がほしいって言われたらどうする?」って訊いたりして(笑)。パートナーが人助けのために一回だけだからと言って他の女と寝たらどう思うだろうと考えていたんですけれど、書いているうちに、何か違うなと思って全とっ換えしたんです。 ―― 結局、青年の視点で書かれたわけですね。コンビニで働く青年が、女性客に突然「あなたの子種がほしいんです」と言われる。彼は「ぴぴぴーズ」という漫画のオンラインのファンサークルに入っていて、仲間にその話を露悪的に語ります。 子種がほしいという出来事が中心じゃなくて、そういう出来事が起きた人のことを書きたかったと気づいたというか。 「ぴぴぴーズ」を通して仲良くなった集団のあの雰囲気や、若い人たちのあのけだるい、仲いいようで全然仲良くないような、でも仲間がいないと困るみたいな希薄な感じ。書きたいのはそれなんだなって分かりました。