阪神淡路大震災を伝え続ける俳優・妹尾和夫 ── 被災者と向き合い20年
阪神淡路大震災を伝え続けた妹尾和夫が「宵待5」レポーター時代を語る。文中の【動画】リンクでは「ネットワーク1・17」についても語っている THE PAGE大阪
「震災の時、自分の携わっている仕事って一体なんなんだろう? と問い直す日々だった」と語るのは、関西を中心に俳優・ラジオパーソナリティとし活躍する妹尾和夫(63)。阪神淡路大震災が発生した翌日からリポーターとして被災地を長期間レポート。翌年からは被災者らから話しを聞くラジオ番組を12年にわたり担当した。長年、この震災と向き合い、現在も多くの被災者と交流を持つという妹尾和夫の思いに迫ってみた。
大阪・梅田から三宮までタクシーで約10時間
1995年1月17日午前5時46分、妹尾は大阪市大正区の自宅で飛び起きた。前夜は芝居の稽古のため就寝は午前3時。近所が騒いでいたため動こうとしたら割れたガラスで足を切った。後にテレビを見て、これが未曾有の大震災であることに気づいた。 妹尾は「劇団パロディフライ」の主宰。劇団員と連絡を取るため大阪市内の事務所のテレビで被災状況を見守っていた。そんな時、大阪のテレビ局・MBS毎日放送から「被災地を取材してほしい」と依頼が来た。なぜ妹尾に来たのかはわからなかったが「おそらく芸人さんがリポートする内容じゃないし、そこで僕に来たのでは?」と当時を振り返った。 震災発生から1日たった1月18日の早朝に同局へ集合。大阪市北区を出発したものの、神戸への道は寸断されていたり、ものすごい渋滞となっていた。「神戸市役所の方へ向かうまで10時間くらいはかかった。そして三宮の変わり果てた姿にぼう然としたのを覚えています」
始まって1か月以上、圧倒的に多かった「お叱りの声」
暗やみの中、最初に取材したのは、三宮センター街にある商店街の自警団だった。倒壊した店から商品が盗まれないよう見回っていた人たちに密着し、翌朝6時まで密着し取材した。そのテープはすぐにバイク便で運ばれ、当時放送されていた同局テレビの夕方ワイド番組「宵待5」で紹介された。これが同番組の月~金曜日の帯のコーナー「妹尾和夫・街を歩く」の始まりでもあった。 神戸市中央区や長田区、東灘区。西宮・芦屋両市といった阪神間など被災地を回ればまわるほど、苦悩に満ちた被災者の状況を目の当たりにする日々。倒壊した建物や被災者、避難所などでカメラを回すと怒鳴られることも多かった。「それはそうですよね。カメラで家が倒壊して、物をかき出したりしてる方のところに『こんにちわ』って行ったら『あんたら人の不幸でメシ食ってんのか』と言われたりしたこともありました」 始まって1か月以上は、こういった「お叱りの声」が圧倒的に多かったという。だが、毎日怒鳴られる日々に「こんなのええのかなあ?」と思い、悩んでいた。しかし「少しでもこの震災の状況を伝えるため、役立つ情報を伝えるために」という思いを胸にロケを続けていた。