「芸能界など絶対に許さん!!」 松田聖子のデビューに猛反対した父親の親心
厳格な父
大きな壁は、娘を強い愛情で見守る父親の頑固さであった。確かに当時の芸能ニュースは、多少鮮烈な部分が強かった気もする。一般の方からしてみれば過剰に反応してしまうのは仕方ないことだったかもしれない。 しかしそれを鑑みても聖子の父親は実に堅かった。聞けば、聖子を子供のころから随分と可愛がっていたという。ときには車で学校の近くまで送っては日々の出来事を聞き相談に乗る。たまに聖子が帰り道に甘い物が食べたいと言えば、小遣いとして100円玉を数枚こっそり渡すようなこともあったそうだ。一方で礼儀や作法、生き方に厳しく、けっして人に迷惑をかけるようなことをしてはいけないと厳格に育てていた。 この時点でこそ、たまたまデビューへの障壁という形になってはいたが、松田聖子の真っ直ぐな性格と素直な感性を築いたのは、間違いなくご両親の深い愛情だったのだ。 結局、CBS・ソニーの福岡営業所で聖子と母親に会った日は、そのまま具体的な話になることはなく彼女たちを見送っている。 父親の許可はそのうちきっとすぐに下りるだろうと思っていたのだ。私が「ちゃんとお父さんに話して許しをもらわなくちゃダメだよ」と伝えると、聖子は「はい。わかりました!」としっかりした口調で答えていた。 *** しかし、父の意思は固かった。若松さんも直接交渉をしたが、「(芸能界入りを)許すつもりは一切ありません」の一点張り。連絡を繰り返すと、「君もしつこいな。ダメと言ったらダメなんだ!!」。娘と父の考えは一向にかみ合わず、しまいに父はテレビの歌番組を見せないように押し入れにテレビを隠してしまう始末だったという。 しかし、そんなある日、意外にも父親から若松さんに電話がかかってくる。そこまで言うのなら、一度直接会って話したい、という。 そして運命の話し合いが行われることとなるのだ。後編では聖子の父と若松さんとの対面、交渉決裂から急転直下、芸能界入りまでを描く。 ※『松田聖子の誕生』から一部抜粋、再構成。
若松宗雄(わかまつ・むねお) 1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。80年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。『松田聖子の誕生』が初の著書。 デイリー新潮編集部
新潮社