32年ぶり「フジ復帰」のコロッケ 「ものまね四天王」ブームとそれぞれの現在地
ものまねブーム
とんねるずは88年10月から、フジで冠バラエティー「とんねるずのみなさんのおかげです」がスタート。そこから一気に人気者になっていくが、ひと足先に同局の番組で売れっ子となったのは、コロッケだった。 「コロッケさんは、85年から出演した『第1回爆笑! スターものまね王座決定戦』(以下『ものまね王座決定戦』)に出場してから、番組に欠かせない存在になっていました。この番組は73年に「第1回オールスターものまね王座決定戦」として始まった歴史のある番組です。歴代優勝者には森昌子(66)、五木ひろし(76)、故・西城秀樹らが名前を連ねていることからわかる通り、それぞれの歌唱力を競う本格派の番組でした」(前出・関係者) しかし、歌番組や漫才ブームの沈静化などもあり、あらたな「お笑い」の要素を求めていたフジは85年から「爆笑!」をタイトルにつけ、徹底したお笑い路線に舵を切る。ただ似ているのではなく、面白く見せるにはどうするか? 87年に就任した木村忠寛氏プロデューサーはこう語っている。 〈「爆笑の二文字がついたころから、どうデフォルメして面白く見せるかという方向に変わってきた」〉(読売新聞1993年5月24日夕刊) この路線は見事にあたり、番組は常時25%以上の視聴率を稼ぐ人気番組に。そしてこの番組に君臨していたのが、コロッケ、清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォー(グッチ裕三・モト冬樹)の“ものまね四天王”だった。 「コロッケさんと清水さんは主にパロディー芸、栗田さんはパロディーとガチの両方、ビジーフォーはガチで多少はパロディーを挟むと、四天王はそれぞれ独自のスタイルを確立していました」(同前) コロッケは、ものまねをする相手の「ここが特徴的」だと思いこんだ部分をことさらに強調するあまり、本人からかけ離れてしまうこともあるが、それが逆にウケている。「ロボットのような動作をする五木ひろし」がその代表格だ。また、彼のものまねにより復活した芸能人もいる。84年に薬物事件を起こし、表舞台から消えていた歌手の美川憲一(78)は、コロッケのものまねで人気が再燃した。 清水は大学在学中に「銀座NOW」(TBS系)出演をきっかけに芸能界デビュー。ザ・ハンダースを経て、ものまね芸人に。顔にセロハンテープを貼り、研ナオコ(71)、故・谷村新司さんらに見立てる独特の「セロテープ芸」が十八番だった。橋幸夫(81)の「恋のメキシカンロック」では、女性用の水着を強引にTバックにして踊りながら歌う姿は大いにウケた。 栗田は83年1月、フジの「発表! 日本ものまね大賞」に素人として出場。その後、六本木のショーパブで芸を磨き、87年12月の「第1弾オールスターものまね王座決定戦チャンピオン大会」で初優勝を果たし、四天王の座に。正統派路線でありつつも、ただ真似るだけでなく、エンタメ性も意識したネタをいくつも持っていた。ビジーフォーは78年に結成されたコミックバンド。コミックソング・ものまね・アメリカナイズされたコントなどを得意としていたことから、番組で披露するレパートリーの大半は洋楽だった。 この四天王を率いて“ものまねブーム”を作り出した功労者が、前述した木村氏だった。 「75年にフジ入社。昔から群れずに一匹オオカミ的な感じでした。当時、大人気だったおニャン子クラブがレギュラーだった『夕やけニャンニャン』のディレクターを務めていた関係で、おニャン子を手掛けていた作詞家の秋元康氏との信頼関係を構築していました。『ものまね王座決定戦』のプロデューサーに就任すると、トーナメント制を導入して同点になった際のじゃんけん対決を発案。また番組セットも一流の音楽番組と変わらない豪華なものでした。しかし、あまりにも独裁だったため、まずコロッケさんと対立。コロッケさんは92年の出演を最後に、日本テレビの『ものまねバトル』に引き抜かれ、ほかにも離脱者が出て徐々に視聴率がダウンしました」(ベテラン芸能記者) コロッケは11年6月29日「日刊ゲンダイ」に掲載された記事で、「ものまね王座決定戦」を降板した理由をこう振り返っている。 〈やりたいようにできなくても、我慢していれば、とりあえず生活は安泰だろう。しかし、このままぬるま湯につかっていたら、もう冷めるしかない。だったら、自分で湯を沸かせるところを探すべきじゃないか。もう一度、熱い湯に入るには、一度、このぬるま湯を出るしかない〉 そして今回、約32年7カ月ぶりとなるフジのものまね番組への出演を果たし、健在ぶりをアピールしたわけだが、気になるのがコロッケ以外の四天王の近況だ。