米東・古豪の系譜 第3部/4 1990年代 不屈期 欠いた「目標設定」 /鳥取
<第91回選抜高校野球 センバツ> 米子東は1996年春以降、甲子園から遠ざかっている。米子市内で加圧トレーニングスタジオを営む板義道さん(40)は当時新3年生の中堅手。初戦・釜石南(岩手)戦はシーソーゲームを制し、2回戦・大阪学院大高(大阪)戦で大会屈指の好投手に抑え込まれた。幸運な二塁打こそ放ったものの、打てる気がしなかったという。 「全国にはこんなにすごい選手がいる、すごいチームがあるという想像力に欠けていた」と振り返る。動画をはじめ対戦相手の情報を現在ほど簡単に入手できない事情はあったが、チーム全体で考えるまでに至っていなかった。「勝てる」という意識で臨んだ1回戦では結果を出した。が、そこまでだった。「ベスト4とか明確な目標設定」も欠けていた一つだ。目標は、練習や試合で何をすべきかにつながる。 南部町生まれ。小学校4~6年では100メートル走の県内チャンピオン。放課後みんなが集まれば、遊びは野球という時代でもあった。中学では野球と陸上の掛け持ち。「強い米東野球部」を知らない世代ながら、両親ら周囲の大人からは「野球なら米東」と繰り返し聞かされて育った。 板さんの学年からは25人が野球部に入った。板さんをはじめ県西部の中学校の「エースで4番」が多数そろっていた。しかも俊足ぞろい。監督らから直接言われた覚えはないが「この代は甲子園に行ける」という期待の世代だった。 それでも慢心はなかった。1年生は朝練習の準備で午前6時に登校した。放課後は午後8時過ぎまで全体練習で、さらに居残り練習。3年夏の県大会前にはバッティングセンターに寄って帰宅する日々。「厳しい、つらいとか思ったことはなかった」 機動力も生かした攻撃で見事期待に応えた。ただバント一辺倒ではなかった。一方で「走者を三塁に進めるまで相手に脅威を感じさせない野球だったかもしれない」とも思う。従来の「米東野球」延長線上にある戦い方だった。 結局90年代の甲子園出場は91年夏、96年春の2度にとどまった。まず強い打球を打ち、遠くへ投げる力をつけ、それから細かいことにこだわる--。「個の力」を意識し、米東野球が大きく変わっていくのは紙本庸由(のぶゆき)監督の就任後だ。=つづく ……………………………………………………………………………………………………… ◇米子東の甲子園成績(1990年代) 年 勝敗と対戦相手 <夏> 1991 0-5 我孫子(千葉)=以降、夏は未出場 <春> 96 9-7 釜石南(岩手)=大田優が満塁本塁打。大会史上13本目 4-8 大阪学院大高(大阪) (敬称略)