クセのある楽曲が耳から離れない!『密輸 1970』を輝かせる、レトロな韓国歌謡曲とチャン・ギハの劇伴
韓国の1970年代の史実にインピレーションを得て制作された海洋クライム・アクション『密輸 1970』(公開中)。本作を観終わった直後に深いため息をついた。物語の素晴らしさに加え、音楽と映像がこれほど密接に絡み合う作品に出会ったのは初めてかもしれない。善人なのか悪人なのかさっぱり分からない登場人物だらけ。観る側は不信感を抱きながら行方を見守っていく。そのようななかで各キャラクターの後の展開や心情をさりげなく教えてくれるのが、随所に挿入される古き良き時代の韓国歌謡である。 【写真を見る】シンガーソングライターのチャン・ギハが初めて音楽監督に挑んだ『密輸 1970』 ■韓国らしい匂いが画面のあちこちから漂う『密輸 1970』の音楽 映画の冒頭で流れるチェ・ホンの「さくらんぼ(앵두)」からして意味深だ。素潜り漁をするシーンのBGMになっている同曲は、恋する人の気持ちについて歌ったものだが、〈信じてもいいですか あなたの心を流れる雲ではないでしょう 信じてもいいですか あなたの瞳 絵の中の太陽ではないでしょう〉という歌詞は、以降の騙し騙される人間関係を予告しているかのようで興味深い。 もう一つ、喫茶店でチュンジャ(キム・ヘス)とジンスク(ヨム・ジョンア)がブローカーから密輸を持ちかけられる場面で流れるパールシスターズの「あなた(님아)」も耳を引いた。〈遠く離れた私の愛しい人 いつ帰ってくるのかな〉〈丸い月が浮び上がってまた傾いていっても 一度去った私の愛しい人は二度と戻ってこない〉とピュアなフレーズが流れる店内で怪しい相談をする3人。そして取引に応じたためにジンスクは大切な家族を失ってしまう。このように何気なく使っている風に見せて、実は伏線になっている韓国歌謡の数々をチョイスしたのは、リュ・スンワン監督とのこと。映像や脚本はもちろん、バックの音楽にもこだわったおかげで本作の完成度をさらに高めたのは言うまでもない。 監督のサウンドへのこだわりは懐メロの選曲に限らなかったのも特筆すべきポイントだ。1970年代の韓国の文化や街並みにしっくりとくるオリジナルのインストゥルメンタルも必要だと考えた彼が白羽の矢を立てたのは、個性派のシンガーソングライター、チャン・ギハ。最初から最後まで韓国らしい匂いが画面のあちこちから漂う『密輸 1970』の音楽監督として、ほかにふさわしい人はいないだろう。 チャン・ギハは1982年生まれ。幼い頃にピアノとバイオリンを学び、中学・高校時代は教会でギターやドラムなどを習ったそうだが、本格的な音楽活動は2002年にバンドのドラマーとしてスタート。そして2008年に結成した“チャン・ギハと顔たち”で自身のスタイルを確立し、同時に知名度も上がっていった。彼が主導するこのバンドが生み出すサウンドは、韓国の60~80年代のロック、フォーク、歌謡のエッセンスをビビンバのごとくグチャグチャに混ぜ合わせたもので、そこにパンク/ニューウェイヴ期の感性も注入。歌詞は日常でよく起こる出来事をテーマにする場合が多く、チャン・ギハの歌い方はデイヴィッド・バーン(かつて一世を風靡したアメリカのバンド・トーキングヘッズの元メンバーで、現在はソロで活動)の神経症的な発声法を意識していたのもユニークだった。 こうした特徴を生かしたヒットソング「安物のコーヒー」「月が満ちる、行こう」「僕の人」「新年の福」などは、音楽評論家や放送関係者にも好評を博し、たくさんの名誉ある賞を受賞。何もかもが順風満帆だったが、2018年末に「10年間やりたかったことを成功させた今が最後を迎える時期」としてバンド活動に終止符を打ってしまう。しかしながらチャン・ギハの作風はソロになっても変わらない。2023年にはオンリーワンの魅力を詰め込んだシングルで健在ぶりを示し、2024年の現在も、強烈な個性を持つ女性シンガー・BIBI( ビビ)に提供したキュートなポップス「栗羊羹」が各種ヒットチャートのトップに輝くなど、今もなお韓国の音楽シーンの重要アーティストとして活躍している。 ■クライマックスの戦いを盛り上げるように響きわたる太鼓の音 前述したとおり、チャン・ギハの音楽には韓国の昔の大衆音楽の要素が欠かせない。なかでも大きな部分を占めるのがロックだ。60年代前半に始まったとされる韓国のロックは、公演・放送に対する国の厳しいチェックや1975年に行われた歌謡浄化対策などにより、長い間アンダーグラウンドなポジションを強いられていた。しかしながら、70年代後半にサヌリムとソンゴルメという2大バンドが登場したあたりから徐々に好転。どちらも人懐こいメロディだが、骨太でゆったりとした演奏が持ち味のサヌリム、パワフルなロックが得意なソンゴルメと異なるサウンドで人気を集め、ロックのファン層の拡大に貢献した。チャン・ギハは以上のような歴史が生んだ名曲の数々を愛しつつ、当時のフォークやバラードの牧歌的な味わいや歌謡曲の華やかさにも影響を受けてきたわけで、となれば『密輸 1970』を引き受けるにあたって何ら迷いはなかったと推測される。 エレキギターによるファンキーなカッティングで、海中に沈んでいる密輸品を回収する海女たちの躍動感や企みを表現したり、久しぶりにチュンジャとジンスクが話をする場面ではブルージーでスカスカな演奏で緊迫した雰囲気を作り出したりと、初の音楽監督作品にもかかわらず、誰にも遠慮せずに自分らしさを思う存分発揮するチャン・ギハは、やはり凄いとしか言いようがない。特によく出来ていると思ったのが、クライマックスで流れるBGMである。最後の戦いを盛り上げるように太鼓の音が鳴り響くが、どことなく香港映画『少林サッカー』(01)のテーマソングに似ているのが面白い。ちなみにその場面に登場する船の名前は「猛龍」。少林拳を連想させるものであり、だからこそこういうアレンジにしたのかもしれない。 昔懐かしい韓国歌謡とチャン・ギハが制作したクセのあるインストゥルメンタル。この2つのサウンドトラックがこれ以上ないほど映像に寄り添った『密輸 1970』は、おそらく日本でも好意的に迎えられるだろう。さらに個人的ではあるものの、お隣の国らしいノリを理解する人も増えることが少しだけ期待している。うれしいときはもちろん、悲しみのどん底にいても感じられる勢いと生命力の強さ、湿っぽい歌詞なのにグルーヴィなアレンジ。リュ・スンワン監督はこうした韓国人ならではのコクと旨味もアピールしたかったと見ているのだが、実際はどうなのだろうか。もし本人に取材する機会があれば確認してみたいところだ。 文/まつもとたくお