グラミー賞7度受賞の世界的ポップスターが自身の名を捨て、男性と女性を融合させたシンボルマークに改名…“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才・プリンス
今から8年前の2016年4月21日、グラミー賞7度受賞、アルバムセールス累計1億枚以上を誇るアーティストが亡くなった。その名はプリンス。日本では“殿下”の愛称で親しまれた、孤高の天才の足跡をたどる。 【画像】プリンスとマイケルジャクソンが並んで歌うはずだった曲
ライバルはマイケル・ジャクソンとマドンナだったプリンス
1983年、マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻していたころ。 マイケルと同い年の二人のアーティストが、翌年の大ブレイクを前に、その魅力をポップミュージックの最前線に浸透させていた。 一人はマンハッタンのダンスフロアを揺るがせていたマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』で初のトップ10ヒットを放っていたプリンス。 その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに夢中になっていた若い世代なら、みんなこう思っていた。 「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」
19歳でセルフプロデュースデビュー、孤高の天才に起きた事件
プリンスは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。両親の離婚などによって孤独な少年時代を過ごすが、彼には音楽があった。 といってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロックミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。 1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。 経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセットヴォイスを多用したこの作品は、ヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景となった。 その後、年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。 それを象徴する事件が1981年に起こる。 ローリング・ストーンズの公演の前座に抜擢されて2日間経験するものの、多くの聴衆から大ブーイングを喰らって、空き缶やゴミを投げつけられたのだ。 演奏予定の曲を中断し、開始20分でステージを下りたプリンスは、この時、ステージ裏で呆然と立ち尽くし、屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。 するとこの後、ミック・ジャガーは数万人のオーディエンスに向かってこんな言葉を吐き捨てた。 「プリンスがどんなにスゴい奴か、お前らにはわからないだろう!」 ロックでありニュー・ウェイヴ。ファンクでありR&B。テクノでありポップ。“真のオリジナリティ”を追求し表現しようとするプリンスという音楽。自らのバンドを「ザ・レヴォリューション」と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。