宮藤官九郎&阿部サダヲ『不適切にもほどがある!』1話を考察
『木更津キャッツアイ』 猫田の再来!?
市郎は中学校では体育教師で学年主任。野球部の顧問として生徒にうさぎとびをやらせ、水を飲んでいる生徒がいたら連帯責任で全員にケツバットする姿からは、『木更津キャッツアイ』(TBS、2002)で阿部が演じた野球部監督の猫田を思い出さずにはいられない。猫田もかなり横暴な男だったけれど、あの世界の中だったからか、それとも22年前はまだ社会がそれを許していたからか、今ほどの違和感は感じなかったように記憶している。 その世界が存在を許容している限り、彼の「不適切」さは際立たない。昭和では当たり前の振る舞いが、2024年にはとんでもないものとして映る。市郎が現代にタイムスリップしたときもそうだったが、1986年の世界で市郎とサカエ(吉田羊)が対面するシーンでは、より時代の変化が明確に見えた。 純子に言い寄るキヨシ(坂本愛登)を野球部でしごき倒し、坊主を言いつけたことで、キヨシの母で社会学者のサカエが学校に怒鳴り込んでくる。サカエ母子は研究の一環か、どうやら現代から昭和に自ら望んでタイムスリップをしてきたらしい。だから話が噛み合わない。市郎がタバコを吸いながら応対することにも、まわりが愛のムチを肯定的に捉えていることにも、その場でセクハラ発言をかますことにも激昂する。
コンプライアンスに 立ち向かうドラマ
2024年で出会った女性・渚(仲里依紗)ともう一度会いたいと思った市郎は、今度は意識的にタイムスリップをする。注文も配膳も自動化された飲み屋で市郎がたまたま隣り合ったのは、自分のせいで後輩が休職したことに悩む会社員・秋津(磯村勇斗)と、ハラスメントについて彼に説く上司たち(菅原永二、咲妃みゆ)。女性上司の「こういう時代だから」という発言に市郎はつい口を出し、「多様性の時代」という現代の常識に文句を言う。 休むことを非難する市郎は理解が足りない。根性論は時代遅れだ。「ミスしたらケツバット、うまくいったら胴上げ」なんて、今は通用しない。でも、「『そういう発言が今いちばんまずいの』ってヒステリックに叫んで話終わらすのはいいの?」「我慢しなくていいだろう、幸せだって言いづらい社会なんかおかしくないかい?」「幸せだって叫ぶオレの価値観も認めてくれよ」という市郎の言葉は、2024年の今においても一理ある。多様性を尊重しようとするあまり、ないがしろにされているものがある。本当の多様性からずれてしまっていることがある。 宮藤官九郎は近作でも、コンプライアンスという言葉のもと、描くのが避けられるようになったものを描いてきた。大石静との共同脚本による『離婚しようよ!』(Netflix)では、主人公の二世議員(松坂桃李)が初っ端からジェンダー意識の低い発言で炎上。『季節のない街』(ディズニープラス)に至っては登場人物のほとんどが現代の「まとも」からはみ出した、排除されがちな人々だ。『不適切にもほどがある!』は、そういった作品を重ねてきた宮藤が、満を持して(おそらく配信作品よりも規制が厳しい)地上波で放つ、形ばかりのコンプライアンスに立ち向かうドラマなのかもしれない。 1話では、「お前みたいなアバズレ女」「ビニ本」「ノーパン喫茶」「クソチビ」という言葉が行き交う父娘ゲンカのシーンで冒頭の注意テロップが再び表示された。知らぬ間に過剰にタブーとなっていた言葉や出来事を、「あえて」というエクスキューズでこのドラマはこの先どれだけ突き抜けていくのだろう。