「諭吉が泣いている」ではなく「諭吉が泣かせた」事件をご存じか…慶應の祖福沢諭吉が青年期に起こした全裸騒動
人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。慶應義塾の創設者、福沢諭吉は品行方正のイメージが強いが、やんちゃな一面を持ち合わせていた。ライターの栗下直也さんは「生前から誤解されることの多い人だった。特に彼の経済的自由主義思想に関する本意は今も伝わっていない」という――。 【画像】福沢桃介 ■水力発電を推進したのは慶應大卒の実業家 「脱炭素」の切り札として再生可能エネルギーに期待が集まって久しいが、太陽光や風力発電は発電量が天候などの自然条件に左右されることが大きな課題になっている。そうした中で開発が進むのが水力発電だ。 水力発電の歴史は新しいようで古い。今からちょうど100年前の1924年に日本初のダム式発電所(大井発電所)が完成している。このプロジェクトを推進させたのが、明治、大正から昭和初期に活躍した実業家の福沢桃介だ。彼はいくつもの電力会社の立ち上げや経営に参画し、水力発電の必要性を説き続けた。 そう聞くと、「電力への熱い思いを胸に抱き、事業を起こした」と思われるかもしれないが、桃介にはそのような気持ちは皆無だった。彼は商社や紡績、鉄道、鉱山などいろいろな業種に手を出していて、電力はそのひとつにすぎない。 そのようなことが可能だったのは、彼が相場で巨額の富を得ていたからだ。日露戦争後の1905年頃までの10年あまりで元手の1000円を300万円ほどにまで増やしていた。これは今の貨幣価値に換算すると約35億円に相当する。水力発電にのめり込むきっかけとなった名古屋電燈への出資も配当が良かったからにすぎない。
■福沢諭吉と娘婿の意外な関係 相場の才覚は明らかだったが、本人は日露戦争後の大暴落を切り抜けたあたりで相場を手じまいして実業界に本格転身を図った。 「事業のみが人間の生命を永久に伝え」ると考えたが、「金持ちになって金持ちを倒してやろうと実業界に発心した」とも語っているように特に何かを成し遂げたかったわけではなかった。 ただ、「人を酷使したくない」「生き物の殺生は避けたい」と消去法で事業を絞っていったら、残ったのが電力事業だった。 「金持ちの道楽っぽいな……」と非難したい人もいるだろう。桃介は名前からもわかるように、あの福沢諭吉の息子なのだ。といっても、桃介は実子ではなく、婿養子であり、「やっぱり、ボンボンじゃねーか」の一言では片づけられない人生を送っている。 生まれは今の埼玉県の農家で貧しかった。神童と呼ばれた小学生時代のあだ名は「1億」。下駄も買えず、裸足で通学していて、友達に笑われるたびに「大きくなったら1億円の大金持ちになる」と口癖のように答えていたからだ。 ■「慶應義塾の奴は敵」 実家は困窮していたが、その才能を惜しんだ人の紹介で、慶應義塾に入る。運動会でさっそうと駆け回る姿が諭吉の妻の目に留まり、1886年に諭吉の養子になった。養子縁組の条件だった米国留学後に諭吉の次女と結婚し、北海道炭礦に入社する。もちろん、諭吉のコネ入社で周囲からは月給泥棒とも呼ばれた。 順風満帆の人生が狂うのは会社に入った6年後の1894年。血を吐き、結核治療のため退社する。養子の身としては面倒を見てくれとはいえない。そこで、手を出したのが株だった。その後も起業したり、勤めたり、働きながらも、投資を続け、巨額の資産を築いたのは前述のとおりだ。 桃介が金に執着したのにはワケがある。商社を立ち上げ、三井銀行が荷為替を引き受けてくれることになっていたが、取引先が興信所に桃介を照会したところ「信用絶無」と回答がきた。 取引先は前貸しを拒否し、三井銀行も荷為替の内約を取り消してしまう。桃介が頭に来たのは興信所の担当者も三井銀行の担当者どころかトップも慶應閥であり、かつ三井銀行のトップは親戚だった。 慶應閥だったがために学生時代の桃介の悪評が広まり、取引をストップしたのだ。当然、経営は成り立たなくなり、会社をたたむことになった。そのとき、桃介は2つ、大きな決意をする。「もう、人の金では商売しない」「慶應義塾の奴は敵」。 そう決めて、自分で稼ぎ、事業資金にしたのはすごい。とはいえ、「あの福沢諭吉の息子が相場師なんて……」と驚かれるだろう。