「とても濃密だったけど、とても苦しかった」五十嵐亮太が振り返る“メジャーに挑んだ3年間”の葛藤
大谷翔平が世界の話題を集めている。1964年の村上雅則から始まり、野茂英雄、イチロー、松井秀喜らを経て、ついに日本人メジャーリーガーはここまで到達したのだ。 この60年間で、日本からアメリカに渡り、異国のグラウンドで奮闘した男たちはおよそ70人に及ぶ。彼らが海を渡った理由とは何か? 彼らは何と戦い、何を得て、何を得られなかったのか? 勇敢に戦った男たちの生きざまを追ってゆく。 ⇒【写真】現在の五十嵐亮太氏
「新しい自分を見つけたい」メジャーでの苦闘
インタビューの間、五十嵐亮太は、「とても濃密だったけど、とても苦しかった」と何度も口にした。メジャーに挑んだ3年間は決して平坦なものではなかった。31歳から33歳までの時期をアメリカで過ごした五十嵐に、メジャーに憧れを抱いたきっかけを尋ねた。 「もともと、ノーラン・ライアン、ランディ・ジョンソン、ロジャー・クレメンス、ペドロ・マルティネスら、好きなピッチャーがたくさんいたので、ヤクルト時代も自分でVHSを買いにいっていました。そこにはファンとしての憧れもあったし、同じピッチャーとして、どうやったら、あんなボールが投げられるんだろう?という思いもありましたね」 1997年、ドラフト2位で千葉・敬愛学園高校からヤクルト入りし、豪速球を武器に不動のセットアッパーとなった。同僚の石井弘寿とともに「ロケットボーイズ」と呼ばれ、球界を代表する人気者となった。順風満帆のプロ野球人生を歩んでいた’09年オフ、五十嵐は海外FA権を行使した。 「いや、決して順風満帆ではなかったです。FA権を獲得する数年前から、もっと新しい自分を見つけたい、という思いをずっと持っていました。真っすぐとフォークだけではない、新しい自分を見つけたいと思っていたのに、なかなかピッチングスタイルを変えることができない。やっぱり、自分の中に甘えがあったし、狭い世界しか知らないから、何かを変える発想力もなかったんです」
石井一久、高津らのMLB挑戦が刺激に
相次ぐチームメートのメジャー移籍も刺激となる。’02年には石井一久がロサンゼルス・ドジャースへ、さらに’04年には髙津臣吾がシカゴ・ホワイトソックスへと入団する。 「’07年には岩村(明憲)さんも(タンパベイ・)デビルレイズ(現・レイズ)に入団しました。それに、結局は実現しなかったけど、石井弘寿さんも渡米する可能性がありました。僕の大好きな先輩たちが、こうして行動を起こしている姿を見て、(もしかしたら、自分も……)という思いは、だんだん強くなっていきました」 もちろん、チームメートだけではなく、佐々木主浩、斎藤隆ら他球団ピッチャーのアメリカ行きも刺激となり、’09年シーズン中、知人のつてを頼って極秘裏に代理人と接触する。そして、松井秀喜の代理人として日本でも知られていたアーン・テレムと契約を結んだ。21試合連続無失点を記録したこの年は、56試合に登板して、3勝3セーブ29ホールドでシーズンを終えた。 「シーズン終了後すぐにアメリカに行き、プライベートでアナハイムのエンゼル・スタジアムを訪れました。ちょうど、ア・リーグの優勝決定戦が行われていて、松井さんも在籍していたヤンキースとの試合を見ました。現地で野球を見たのは初めてだったので、さらに憧れは募りましたね」