北杜夫、知られざる父斎藤茂吉との葛藤と青春時代
仙台市の仙台文学館で、2011年に急逝した作家、北杜夫の生涯をたどる特別展「北杜夫ーどくとるマンボウの生涯」が開かれている。「マンボウ」シリーズなどユーモアあふれる作品で知られるが、展示からは、父であり歌人の斎藤茂吉への複雑な感情が作品に大きな影響を与えていたことがうかがえる。これまで他の展示ではあまり触れられてこなかった北杜夫の青春時代から、ユーモアの中に悲しさや寂しさも漂う彼の文学の原点が見えてきた。
仙台時代と父茂吉との葛藤
北杜夫(本名、斎藤宗吉)は1927年、歌人斎藤茂吉の次男として、東京・青山で生まれた。幼少期は昆虫採集に明け暮れ、長野県の旧制松本高校に進学。そこで後に小説家となる上級生の辻邦生と、教授でドイツ文学者の望月市恵と出会い、文学に目覚める。その時初めて父斎藤茂吉の歌集を読み、歌人としての父を崇拝するようになった。やがて、「ファーブル昆虫記」のような博物学と文学を結びつけた本を書きたいと夢見るようになる。 しかし、医師の家系であり、自身も精神科医だった父茂吉は息子が医師になることを望み、動物学や文学の道に進むことに反対。動物学者になりたいと訴える北に、父から「お前はバカになった」と書かれた手紙も届いた。北は結局父の望み通りに東北大医学部(仙台市)に進学するものの、授業にろくに出ず、毎晩父に内緒で小説を書き始めるようになる。カバンに卓球のラケットだけを入れて大学に通い、昼は卓球をし、夜は仙台銀座で飲み歩く日々。父にもらった医学書を買うお金も飲み明かし、ついには学費に手を付け、カバンまで質に入れた。仙台銀座にあった「バー太田」は、他の客の飲み残しをタダで学生にくれたため、よく通ったという。 それでも北は「父を落胆させないため」、落第だけはせずに医学部を卒業。一方では小説を書き続け、父にばれないよう、杜の都仙台とトーマス・マンの小説から付けた「北杜夫」というペンネームで作品を執筆していく。偉大で尊敬すべき歌人としての斎藤茂吉と、自分を苦しめる厳格な父としての斎藤茂吉との間で葛藤し続けた仙台時代。「『小説家北杜夫』は、仙台で生まれた」と、特別展を企画した学芸員の三條望さん(29)は話す。 父茂吉は、北杜夫が仙台を去る直前に亡くなった。晩年には父も北杜夫の創作活動を認め、和解したという。そんな父に北杜夫は、「茂吉も老いた」と感じたという。